2026年度前期の最後で通算100回となる菅野博史先生「『法華経』『法華文句』講義」第6回が、9月28日(月)午後6時半より開講されました。
今回はテキストの『文句(Ⅲ)』の874頁の始め「「五百由旬」とは、基師の三界の結惑を三百と為し、七地に断ずる所の習気を四百と為し~」から、経文は「譬へば、五百由旬の険難悪道の、曠かに絶えて人無き、怖畏の所あるが如し~」からになります。「化城喩」がここから始まります。
「五百由旬の険難悪道」という道中の長さですが、「由旬」の数について基師(慈恩大師)は、三百由旬を「三界の煩悩」、四百由旬を「七地に断ち切る習気」とし、、五百由旬を「八地以上に断ち切る無明」であるとします。これには諸説あるようですが、後に述べられている「三界を三百」、「声聞地を四百」、「縁覚地を五百」という説明は分かり易いです。
幻の化城は、導師が率いる一団が道中の厳しさに「もう帰ろう」と悲鳴を上げた時、ちょうど三百由旬を過ぎたところに虚構の到着地として作られます。ですから三百由旬の化城までの到着を「仮に渡る〈権度〉」、五百由旬の宝処まで着くことを「真実に渡る〈実度〉」といいます。
また「由旬」の違いとして、空仮中の三観に約しての解釈があり、入空観では三百由旬を過ぎ、仮観では四百由旬を過ぎ、入中観では五百由旬を過ぎることができる、と述べられています。
また「険難悪道」については、「因果の生死をたとえる」として、因の険難とは「見思惑と五住地惑」であり、果の険難とは「分断と変異の生死」であるとします。この因果によるので「悪道」とします。
ここで興味深い譬えが出てきます。人なき道に二つの意味があるということで、何もない曠絶の地平に、人の依り所とするものが有る、拠り所は無い、とするのですが、これが「生死の中に涅槃があり、煩悩の中に菩提がある」ということの喩えだというのです。
つまり、険難悪道とは生死即涅槃を譬えていて、「もし生死・煩悩に涅槃・菩提がなく、薬の中に病が無く、病の中に薬が無ければ、これは広々とした曠絶の地に、人のより所とするものが何もないことになる」と述べています。これは、険難悪道という最悪地であっても「希望がある」ということで、通算100回を数えた長き講義の道中にふさわしい「希望の言葉」だと思いました。
次回の11月30日は、880頁の七行目「「将導衆人」の下は、これ第二に将導喩なり」からになります。次回は、別のスタッフがブログを担当します。ぜひ、ブログ記事の違いもお楽しみください。(担当スタッフ)