第1回 これらの呪詛、これらの冒涜、これらの嘆き、これらの法悦、叫び、涙、これらの讃歌は、無数の迷宮を通って次々にひびく一つの木霊。 (ボードレール 阿部良雄訳『悪の華』より)
〈性〉という語の第一義は、生まれつきの傾向、天から与えられた本質という意味で、漢音でセイ、呉音でショウ、和訓でサガ、一語でセックスやセクシュアリティの意味で使われるようになったのは一九一〇年頃で、ここから「性欲の時代」が始まった、とされます。
さて、わたしが話題にしたいのは「性欲の時代」以前の〈性〉と〈仏教〉です。したがって、セックスの全領域を指す〈性〉という語はむろんのこと、〈性欲〉〈性交〉〈性器〉といった語もなく、〈性欲〉に相当する語は色情、淫情、淫欲、情欲、春情などで、〈性交〉は交合、交接、交媾などと表現されていました。そんな時代の〈仏教〉でわたしが関心を持っているのが、例えば、女犯と男色あり、真言立川流と天台玄旨帰命壇であります。
これだけでも大難事なのに、増穂残口(ますほざんこう)の紹介も、と考えています。とはいえ、残口については、『近世色道論』(日本思想体系60)を一読下されば、わたしの出る幕など・・・・・・ 合掌。
第2回 法華経の方便品に説かれる会三帰一の教説や、寿量品に説かれる久遠成道の教説は、法華経を根本経典とする法華教学(天台教学と日蓮教学)において、その意義が化導論や顕本論として盛んに議論されてきた。
この講義では、それらに関連する種々なる問題──実相論・常住論・相即論・垂迹論・教主論・教判論・種脱論などを順番に取り上げて、できるだけわかりやすく説明していきたいと思っている。
第1回目は、法華経に説かれる久遠成道論が、釈尊一代の化導を教判として整理する際にどのように扱われたか。光宅寺法雲、浄影寺慧遠、天台大師、嘉祥大師、日蓮聖人などの説を取り上げながら一緒に考えてみたい。
第3回 現在日蓮聖人門下の勝劣派に属する法華宗(本門流)は、八品門流とも称され、千葉県茂原市の鷲山寺・静岡県沼津市の光長寺・京都府京都市の本能寺・兵庫県尼崎市の本興寺の四大本山で宗門を構成しているが、門祖は本能寺・本興寺開山の日隆である。日像によって京都に成立した妙顕寺(後に妙本寺)が室町時代、日霽の代に弟子間の対立によって分流を生じたことは知られているが、日隆も妙本寺より分流した一人である。
日隆は、至德2年(1385) 足利氏の一族である越中国桃井家に生まれ、出家し後に上洛し妙本寺に入寺したが、そこには伯叔父の日存・日道の両名がおり、やがて3名で教学の研鑽に励んだという。まず宗祖日蓮聖人の教えを知る為に遺文の蒐集を始めると共に、当時門下の教学研究では本迹勝劣義が勢いを得始めており、3名も応永17年(1410) 頃に越後本成寺の日陣を訪ねて遺文を拝見し、勝劣義を聴聞した。
この中で応永22年(1415)京都に本応寺を、応永27年(1420)尼崎に本興寺を建立している。
日隆は教学の研鑽に没頭し、三千余帖と称される大部の著作を残した一方で近隣地さらには遠隔地への布教をおこなったが、特記すべき特徴として、水上交通の利用がある。まず拠点となった本能寺・本興寺の位置であるが、本能寺は布教の拠点として都に所在し、本興寺は京都より淀川等の河川を下って大阪湾への出口の尼崎に位置し、東に出れば堺、西に向かえば兵庫・牛窓・宇多津・尾道等の要港が連なっている。そして堺(顕本寺)・兵庫(久遠寺)・牛窓(本蓮寺)・宇多津(本妙寺)・尾道(妙宣寺)と日隆有縁の寺院が建立され、さらに各港には海運の業務を統括する問丸が存在したことから、問丸を管理する富裕層、所謂有徳人が居て日隆の布教活動を外護したものと考えられる。
日隆には多数の僧俗信徒の存在が考えられるが、彼等を統率する為に法度が制定された。法度は当時の他門流にも存在するが、自己の門流を護持する為に他門流を否定した厳しい条文である。さらに門流存続の為に後進者の養成にも力を尽くし、従前よりの教学書の著作と共に、文安4年(1447)頃には教場としての勧学院が存在していた。そして関東方面からの他門流の修学生が来山していたとの史料が残存している。
日隆は宝徳2年(1450)本能寺を日信に、享徳元年(1452)本興寺を日登に譲ったが、80歳で入滅するまではさらに教義書の著述と後進の指導に当たったようであり、教義書は現在本興寺に385巻格護されている。
法華宗(本門流)の四大本山が異なる建立事情にも関わらず同一宗門を形成しているのは、日隆の教学に傾倒した先師達の「本門八品上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経を唱える信仰」が伝承されたためである。
第4回 日蓮が今日でいうところの世界について認識するにあたっては、主に(1)規範としての宗教、(2)現世の内在化、(3)世界という視座、の3つを回路としていたと整理できよう。(1)については贅言を要しないところであり、教学・宗学上の解釈と深く関わることから措く。(2)は、自説を社会的に訴求するという目的実現のためには、単に宗教的主張を展開するばかりではなく、社会一般の価値をも主体的に包摂し、活用したということである。その端的な事例として、鎌倉幕府法、鎌倉時代のジェンダーなどが挙げられる。(3)は、佐渡流罪以降における「一閻浮提」の語の多用からもうかがえるように、日本一国の範囲を超えた高次の認識を思考の基盤としたことである。とくに(3)によって、①中世日本に一般的であった三国世界観のパラダイムを超克し、日本人の世界観の転換をもたらしたこと、②日本および日本の政治的スキームと為政者を相対化したこと、③本邦成立の宗教として初めて海外宣教の構想を示したこと等の歴史的意義は大きい。
第5回 日蓮とは何か?日蓮仏教とは何か?それを探求するために教理面からの膨大な研究が提示され蓄積されてきたことは言うまでもない。しかし日蓮仏教の探求には教理研究という枠に収まりきれない、倫理観・国家観・政治思想といった面からの問題が横たわっている。本講は、(1)関東出身者たる日蓮の思考・行動に伏在する「エートス」の探求、(2)鎌倉武家社会における日蓮の活動や幕府権力との関わり方の探求、(3)日蓮の朝廷(天皇・院)への志向についての検証、という主に3つの視点から、日蓮仏教の特質について私見を述べていくものである。いずれも近年の歴史学の研究成果を踏まえ、また厳密な史料読解に基づいたアプローチで臨んでいきたい。
第6回 大学紛争を中心に世界的な反体制運動が広がった1960年代後半、上原專祿は日蓮認識をめぐって二つの重要な視座を打ち出した。一つは、2回の岩波市民講座で示された世界史から日蓮を見る/日蓮から世界史を見るという「日蓮認識の世界史学的方法」であり、「世界史⇔日蓮」の往還的な視座である。
もう一つは、死者と生者の共存・共生・共闘を打ち出した著書『死者・生者―日蓮認識への発想と視点』である。この二つの視座は一つとなり、「全死者・全生者の共存・共生・共闘の世界史像形成」への構想と、「「日蓮の分身」にまで私自身を鍛え上げる」とする誓願となっていった。
この上原專祿が提示した「世界史⇔日蓮」「死者・生者」「日蓮の分身化」は、激動する世界に対応していく動態的な日蓮思想の大きな可能性を示している。今再び百年以上前の戦前に戻ったかのような世界情勢を迎えて、現代に活きる日蓮思想のあり方を上原專祿の日蓮論を再検討することで考えていきたい。