講座「震災転移論-末法の世に菩薩が来りて、衆生を救う?」第3回講座報告

講座「震災転移論-末法の世に菩薩が来りて、衆生を救う?」第3回講座報告
2022年12月12日 commons

12月12日(月)午後6時27分より、磯前順一先生の連続講座「震災転移論—末法の世に菩薩が来りて、衆生を救う?」の第三回講義「死者論 南相馬——「謎めいた他者」と死者」が、沢田研二の「時の過ぎゆくままに」の歌声とともに始まった。今回は沢田研二の歌が三つ使われて、象徴的な意味を持つことになった。
講義は⑴「青森の原発街道」から始まり、恐山のイタコの話から死者との交流を通して自らの主体を形成してきた東北という地域に、都会の光りを賄う危険な原発という闇が造られてきた矛盾を指摘する。そして⑵「南相馬の沢田研二」では、磯前先生の「沢田研二論」の大阪での講演に田老での震災関連死で父と夫を失った女性が参加して、その時に流したジュリーの「そっとくちづけを」の歌で自殺を思い止まったことを語り、また被災地南相馬でのコンサートで死者とともに生きる被災者の心に寄り添う沢田の姿を紹介して、魂に囁きかける表現行為が人を救うことに言及。そして、被災地に移住した作家の柳美里がその地で、「自分が何をしたいか何をすべきかは自分が決めることではなく、この世に存在している意味も自分の内にあるのではない」と述べたことを引いて、そう感じたのはある種の回心または認識論的な覚醒であり、私という主体が「謎めいた他者(死者)」によって形成されたのだと指摘する。そうした事態を磯前先生は「他者論的転回」と呼ぶ。それは、死者への傾聴であり、主客未分な謎めいた他者の世界に、個人の主体が入っていくことでもある。⑶「忘れ去られた記憶」では、南相馬の松川浦が「忘れ去られた被災地」と呼ばれて、その地域の人々の悲惨な記憶が取り残されたままになった状況に言及。光を求める純粋さは、必ず闇をも生み出す。そして、ソウルの南山に戦前に造られた朝鮮神宮と伊藤博文を祀る博文寺が、戦後には朝鮮民族の勝利として、伊藤を暗殺した安重根の記念館となっていることを紹介し、「誰も無垢なままにはいられない。福島、それは現在もなお続く植民地主義の呼び名なのだ」と結び、最後に沢田研二が歌う「ヤマトより愛をこめて」を流して講義は終了した。
次回は、1月16日に第4回「感染 東京 ——秘密の小部屋」が開講される。ぜひ受講して、この画期的な講義の後半を全身で感じながらご聴講ください。  (担当スタッフ)