2021年8月17日(火)午後6時30分より、菊地先生の講座【歴史から考える日本仏教⑦】〈日蓮をはぐくんだ房総地域の歴史と宗教を考える〉第6講「房総地域の宗教文化」が行われました。これまでと同じくzoomによるリモート講義となり、受講者はそれぞれオンラインにて受講しました。
第6講となる本講では、これまでのまとめとして、宗教面・文化面からみた房総地域の特徴について、多角的にご講義いただきました。以下、内容について要点を絞りご紹介致します。
はじめに
房総地域を勢力圏としていた千葉氏の動向を中心に、関東の一部としての房総地域について概観した。
時に関東の中心ともなったことのある房総地域について、交通網との関係についてから触れ、海路、特に浦賀水道を通じた鎌倉との密接な関係について簡潔にお示しいただいた。
1 鎌倉仏教の展開と房総
中世成立期の房総では天台宗を中心として真言宗などの勢力が展開していたが、寺院のみならず、鹿島、香取などの勢力も存在していた。その中で鎌倉幕府の成立により、房総も幕府の宗教的秩序に組み込まれていく流れ、さらには新興勢力として浄土宗、律宗、日蓮宗の台頭も房総地域にはあったことをご教示いただいた。
中でも西大寺律宗が、三浦半島六浦の称名寺を経由して房総地域に広がり、成田慈恩寺の成立など、大寺院の建立もなされていたことについて、多くの史料を示しながらお話しいただいた。
2 南北朝内乱期の香取神宮
千葉県佐原市に鎮座されている下総国の一宮、香取神宮について、その立地から、交通の要所であり、市なども開かれていたが、院政期以降の宮司家と大禰宜家の争いなどから武士に所領を奪われるなどの没落があったこと、それに対して大禰宜家の大中臣氏が訴状という形で幕府に訴え、また近隣の鹿島神宮などと共に、一組となり幕府と対応していた事実についてお示しいただいた。寺院のみならず、神社もまた幕府の宗教的秩序の中に組み込まれていた好例であり、中世には、幕府あっての宗教文化が房総地域に於いて弘まっていたことを史料だけでなく、地図なども活用し、ご講義いただいた。
3 房総地域の山林修行者と山林寺院
『沙石集』にもあるように、房総地域、特に安房国は山伏の活動が盛んであった。それには、熊野信仰も関係しており、太平洋を通じた交通・流通経路を用いて、熊野山伏の活動が鎌倉時代には既に及んでいた。
と同時に、日蓮が修行した清澄寺は山林修行(虚空蔵求聞持法)の聖地であり、山林修行者と清澄に深い関わりがある事もお示しいただいた。日蓮の伝記には虚空蔵菩薩に願を立て、宝珠を得たという伝説もあり、清澄寺の宗旨は不明であるが、山岳信仰も含む多様性を持っていたこと、日蓮と在地領主東条景信の対立は、その多様性を享受した日蓮に対して浄土宗に改宗させようとする東条との対立であった可能性についても述べられた。これまでの日蓮伝ではあまり触れられてこなかった視点に、聴講者一同、聞き入っていた。
最後に菊池先生は、房総地域は地政学的には、東海、関東から東北へ至る海陸の結節点として、また海上交通の要所としての役割があり、それ故に時には関東の中心となり得たこと、鎌倉時代に於いては浦賀水道を挟んで鎌倉と密接な関係にあるが、適度な距離感が、北条氏による他氏への攻撃、他の御家人の所領や権益を奪うという行為から外れることができていたと教示された。
さらに、日蓮の学問受容について、単に教理書から他宗批判をしたのではなく、房総という多様な宗派を包括していた風土の中で自己の思想を形成していったこと、言い換えれば、諸宗教を肌で感じながら活動していた可能性があることを示唆された。それは、日蓮が最終的に房総を拠点とせず、身延という地を選んだことにも関係するのではないかという指摘に、一同感嘆の声を上げた。
近世以降の房総地域はそれまでの諸豪族、諸大名が没落していったことにより大勢力が存在せず、小藩によって形成されていたこと、また近隣の江戸が中心地となったことで、産業面、文化面でも大きく影響を受け、その結果として醤油醸造や多くの文化人を輩出する土地柄となったと話され、講義を閉じられた。
講義後質疑応答がなされたが、多くの質問が集まり、菊地先生も丁寧にお答えくださいました。聴講者一同、房総地域という地域史を通して歴史を読み解くことも面白さ、最新の研究に触れ、大いに感銘を受けました。
次回は10月19日(火)18時30分~【歴史から考える日本仏教⑧】〈裏から読む鎌倉時代―日蓮遺文紙背文書の世界〉第1講「日蓮遺文紙背文書とはなんだろうです。感染者の減少をうけ、新宿常円寺祖師堂での対面講義と、オンライン講義を併用して行う予定です。多くの方の聴講をお待ちしております。(スタッフ)