講座「鎌倉仏教史の名著を読む」第5回講座報告

講座「鎌倉仏教史の名著を読む」第5回講座報告
2020年2月18日 commons

2020年2月18日(火)午後6時30分より、菊地先生の講座【歴史から考える日本仏教④】〈鎌倉仏教史の名著を読む〉第5講「佐藤弘夫「怒る神と救う神」を読む」が行われました。今回の論文の著者佐藤弘夫氏は、現在東北大学教授。菊地先生は著者について、話が上手でキレる文章を書く人。大学時代に古代・中世の先生から指導を受けたようで、歴史の資料を用いて思想史を論じるスタイル。その研究方法は、仏教を取り込みながら日本思想史を研究、仏教思想史を取り入れて、歴史的に考える思想史を打ち出した。また中世思想史について、神道史や神仏習合に乗っかるのではなく一から構築する。例えば、起請文を使って中世思想史を構築する、というスタイルは佐藤氏独自の視座によるもの。前々回講座の平氏や今回の佐藤氏は、黒田俊雄氏の顕密体制論に強く影響されていた時代であり、黒田氏を意識して論文を書いている。とご説明いただきました。

本論文の初出は『日本の仏教』3(1995年)。内容について、特に以下の点についてご説明いただきました。

はじめに.これまでの神仏交渉論研究は、神仏の交渉過程を通時的に追跡することに主眼がおかれ、共時的次元での両者の併存構造の解明がなおざりにされてきた。佐藤氏はそれを解明する史料として「起請文」の有効性を挙げる。菊地先生は、中世人は神(神社)と仏(寺院)を分けていた。上島享氏が指摘しているが、「神仏習合論」をやめなければならない。中世における神仏交渉を立体的(三次元)に捉えることにより、中世人に共有された冥界のコスモロジーが浮かび上がる、と指摘。

1.神の役割・仏の役割.起請文の神文に登場するのは神祇が圧倒的に多い。末法濁悪の辺土日本では、柔和な仏は賞罰力ある神として垂迹する。『沙石集』には仏菩薩は忿怒形の神である蔵王権現として垂迹する姿が説かれる。「救う仏」と「怒る神」の役割分担が確立されていたのではないか。

2.起請文の仏たち.神文に登場する仏には、日本国内の特定の場所に、眼に見える姿をもって存在する、という特徴がある。この仏は仏でありながら罰を下し、日本の神祇と同じ機能を果たすものと考えられた。また仏が自身に〈救い〉の機能を行使しないことによって、悪道に堕ちる。とするが、菊地先生は、佐藤氏が、それ(救いの機能の不履行)によって、「結果的に敵対者を悪道に落とす」と述べているのは、起請文の本質が「自己呪詛」にあることを見逃している、と指摘。

3.怒る神の系譜.起請文の神文には、神仏の他に聖人や祖師の聖霊、インド・中国の神々が登場する。殊に四天王は、須弥山上の此土世界の守護神として、東大寺など特定の場に安置された守護神として、二か所に登場する。

4.中世神仏のコスモロジー.「僧興円起請文」「北条泰時起請文」などの史料を基に、起請文に登場する神祇は十界をベースに配列されている、とする。菊地先生は、「北条泰時起請文」は自己呪詛が無いため起請文ではなく祭りの祭文ではないか、と指摘。

5.中世的コスモロジーの特色.中世人にとって不可視な仏菩薩には序列が無く、来世には関われるが今世の賞罰には関係が無い。よって現世の賞罰においては、いかなる行が必要かという一点が重要であった。

6.おわりに.これまでの二分法を超えて、機能論の立場から神仏交渉史に新たな視座を提示。中世人の神仏観の特色として絶対者の不在が挙げられ、そうした思想状況を前提とすると、釈迦・弥陀などの一仏に救済と賞罰の根元的権威を集中させる親鸞・日蓮らの宗教の特異性が分かる。

最後に菊地先生は、宗教学者ミルチャ・エリアーデが提唱した「暇な神」概念と佐藤氏の神仏論を相対し、佐藤氏はかかる概念に言及せず、また一神教概念は「暇な神」のもとに具体的・動的な祖霊や精霊が活動するという二元的世界観を排除する点など、齟齬する部分もあり直ちに同一視することはできない、と指摘。以上、上記の史料の他に豊富な資料をご用意、丁寧に解読を施し、充分なボリュームがありながら聴講者に分かりやすい読み解きをいただきました。質疑応答では、本地(来世・冥・密)、垂迹(現世・顕)の世界観について、現世にとって来世は関係のない一方通行的な世界ではなく、両世界は循環しているのではないか。即ち、垂迹(現世・顕)→本地(来世・冥・密)ではなく、垂迹(現世・顕)⇔本地(来世・冥・密)であり、改めて立体的(三次元)に捉えることの重要性をご教示いただきました。

次回は「大塚紀弘「中世「禅律」仏教と「禅教律」十宗観」を読む」、2020年3月17日開講予定です。当日のみの受講も大歓迎ですので、事前にご連絡頂ければ「事前資料の論文」をお送りします。どうぞご聴講ください。(スタッフ)