特別講座「これからの天皇制」第3回講座報告

特別講座「これからの天皇制」第3回講座報告
2019年12月26日 commons

去る20191226日(木)午後6時半より、磯前順一先生を講師に「これからの天皇制」第三回となる「出雲神話論」が開催されました。磯前先生は講義の冒頭の自己紹介で、宗教学者としての現在の興味を「天皇制」「東日本大地震の死者供養」「差別と宗教」として、それらに共通するテーマは「いかに他者と共存できるか」であると語り、オウム真理教事件で明らかになった「独善的な真理」という陥穽をいかに克服するかが重要であるとして、講義を開始しました。今回の講義「出雲神話論」のレジュメには3つの目次があり、第一章は「神話化する現代日本」では大国主之命が取り上げられ、第二章「まつろはぬ神の行方」では神と妖怪また他者の問題が論じられ、第三章「祀られざるも神には神の身土がある」では、謎めいた他者をキーワードにこれからの天皇制へのヒントが語られました。以下、その概要を報告します。

第一章「神話化する現代日本」では、21世紀に入って神仏習合の「出雲国神仏霊場」が「「和」を大切にする日本人の調和精神のあらわれ」として作られこと、また1940年の戦時中に神武天皇即位からの皇紀2600年が国をあげて祝われたことを取り上げて、現代でも安易に神話が活性化する危険性を指摘。特に皇紀2600年では、そのたった25年前の1916年には文献学者・津田左右吉の「神代史は官府もしくは宮廷の制作物であって国民の物語では無く」という学説が常識であったのに、世論に批判され著作が発禁処分となる経緯があったと説明。こうした事態は、B.アンダーソンの『想像の共同体』で明らかにされた、ナショナリズムの情動を作る「個人を集団に同化する言説の反復可能で共有可能な陳腐さ」によっている。

また、記紀にある出雲神話の「国譲り」とは、「天津神(高天原系・天照大神)」が「国津神(出雲系・土着の神・大国主)」の葦原の中つ国(出雲王国)を奪って、大国主が冥界の主に追いやられた物語であることを指摘。また近代の国家神道の形成期においても、伊勢派と出雲派が争う祭神論争があって、「天照大神こそが顕幽両界を治める神であり、他の神はすべてその臣下にすぎない」こととなり、伊勢派の勝利に終わっている。

第二章「まつろわぬ神の行方」では、大国主の例にみられる封じ込まれた神の行方を、「異人」「妖怪」「まれびと信仰」「謎めいた他者」をキーワードとして論じていった。小松和彦の異人論では、祟る霊を祀り上げて封じ込めることが「祭り」の意味であり、祀られていない超自然的な存在を「妖怪」、それに対して祀られるような超自然的存在を「神」とする。漫画家の水木しげるは、祭祀から逸脱したまつろはぬ者としての「ゲゲゲの鬼太郎」を描いたが、『総員玉砕せよ』など自らの戦争体験も描き、自分が妖怪の絵を描いているのは死んだ戦友の追悼のためだ、という言葉を残している。対蹠的なのは戦時中に筧勝彦がとなえた「帝国神道」であり、「世界の偉人を一神社に合祀し、神道本来の寛容的旗幟を鮮明にし、愈々益々神道の光明を国家世界に宣揚したい」と提唱した。しかし、この帝国神道は寛容どころか「国譲り」と同じ支配と服従であり、天津神と国津神、大和民族と蝦夷(内地植民地)、日本人と台湾人・朝鮮人(植民地)の関係にほかならない。またG・アガンベンによれば、「犠牲者」とは排除されつつも包摂される存在であり、包摂も排除の一面にほかならない。日本の神道の例でいえば、公共空間への包摂を行う眼差しは天皇の祭祀によって担われてきた。その空間には、祀られた神々だけではなく、服従することを拒否して殺害されたまつろわぬ神たちも排除されながら包摂される存在として組み込まれている。そこには、西洋的な一神教の宗教を持たない近代日本において、その代替物として大文字の他者としての役目を果たす天皇制があった。また島薗進の言葉を引いて、戦後において「神道指令」から60年以上たっても国家神道は存続していることを確認した。

第3章「祀られざるも神には神の身土がある」(宮沢賢治)では、賢治の詩句を引いて神社に祀られないような祠の神にもその固有の存在意義があること、そして天皇の身土とは日本列島のすべてとなることを確認。そのため「現人神」となった近代天皇制においては、「祟られもする祭主であり祭神である天皇家の脆弱性」を覆い隠すために、沖縄、台湾、朝鮮半島、東南アジアに植民地を拡大してその神社を作り、自らの万能性を帝国臣民に証明し続けなければならなかった。しかし、どんな強大な政治的宗教的な君主も、自己の力だけで主体化することはできず、天皇の主体もまた大国主のような他者となる神々との関係を通してしか自己を確立できないことを指摘した。そして、最後に「謎めいた他者の声を聞く」ことの重要性を述べ、宮沢賢治の作品を読み込んだ詩人・山尾三省の「私は、私を含むよりおおいなるものの呼び声を聴いて、その声とともにただ歩いてゆくばかりである」という言葉で、レジュメでの講義を終了した。

その後、質疑応答のパネラーとして参加した江戸時代思想史を専攻する宗琦(そうき)女史との質疑を20分間ほど行って補足説明をしたのち、受講生との質疑応答を重ねて2時間半ほどに及ぶ講義を終えられました。あらためて磯前先生には、刺激的で充実したお話を頂きまして御礼申し上げます。

次回の第四回は2020123日(木)午後630分より、講師・島薗進先生による「国家神道と神聖天皇制崇敬」となります。どうぞ御聴講のほど、宜しくお願い申しあげます。 (スタッフ)