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令和元年8月26日(月)18時30分から、「『法華経』『法華文句』講義」講座(第16回)が行われました。
今回は「比丘衆」における「多知識衆」(広く世間に知られている比丘たち)のうち、「畢陵伽婆蹉」「薄拘羅」「摩訶拘絺羅」「難陀」「孫陀羅難陀」「富楼那」「須菩提」の7人について解説されました。
畢陵伽婆蹉は、前生500世以来、婆羅門の家に生まれ続けたことで慢心の習気があるとする。
あるとき、ガンジス河を渡ろうとした畢陵伽婆蹉は、河の神に対して「咄、小婢、流れを駐めよ」と言ってガンジス河を渡ることができた。その後、河の神は仏の所に詣でてこのことを訴えた。仏は畢陵伽に懺謝するように命じ、畢陵伽は合掌して、恒神に「小婢、瞋ること莫れ」と謝罪した。これを見ていた大衆は皆笑った。その時仏は、「畢陵伽婆蹉の言葉は習気から出た言葉で、慢心からでたのではない」と説いた。
薄拘羅は、160歳まで生きたとされており、その間も病はなく、また継母に5度も殺されかけたが傷つくこともなかった。
また、阿育王が薄拘羅の遺骨を納めた塔を詣でたとき、「薄拘羅尊者は、無欲の人だったが、人の為に一度も説法をしたことが無かった」と言った。阿育王が一銭だけ供養したところ、銭が阿育王のもとに返ってきたので、王たちは薄拘羅の無欲さに感嘆したという。
摩訶拘絺羅は、舎利弗の外叔であり、長爪梵士とも称されている。摩訶拘絺羅と姉(舎利弗の母)が議論してもいつも摩訶拘絺羅が勝っていたが、姉が舎利弗を孕んだとたん、姉が勝つようになった。
摩訶拘絺羅は、舎利弗との議論に勝つために、爪を切る暇もないほどに休むことなくバラモン経典を学んだ。その後、摩訶拘絺羅が舎利弗に会いにいくと、舎利弗が釈尊の弟子になったことを知った。あの舎利弗が弟子になるほどの沙門とはいかなる人かと釈尊のもとを訪れた摩訶拘絺羅は、釈尊との問答の末、釈尊に弟子入りすることとなった。
孫陀羅難陀は生来、容姿端麗であったとされており、妻である孫陀利との説話を引用している。
富楼那は、満願子・満慈子とも言われている。
富楼那が本国に還って布教すると決心したところ、釈尊から「その国の人々は凶暴であるから、もし汝に辱めをしたらどうするか?」と問われた。 富楼那
は「もし非難され侮辱されたとしても、拳で殴られなかったことを幸いとする。もし拳で殴られたとしても、木や杖で殴られなかったことを幸いとする。木や杖で殴られたときは、刀で斬られなかったことを幸いとする。もし刀で斬られたときは、この煩悩の肉体を離れることを与えてくれたことを幸いをする」と答えたと説かれています。
須菩提は、常に閑かな林や石窟で空行を修行したとされており、また無諍三昧に住していたので他者と争うことが無かったと説かれています。(テキスト152頁
4行目まで)
9月は、9月9日(月)午後6時30分~8時30分 (5月休講の補講分)と、9月30日(月)午後6時30分~8時30分 (9月分)の2回開催いたします。
(文責・スタッフ)
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