去る5月9日(土)午後1時半より、磯前順一先生の一日集中講座「新・学問のすすめ 研究者失格!『見るなの禁』を見た男」が、実況&オンラインで四時間半にわたり開催されました。磯前先生の講義は、令和4年度後期に実験的なオンライン講義での「震災転移論―末法の世に菩薩が来りて衆生を救う」以来でしたが、今回もオープニングにレッド・ツェッペリンの「天国への階段」から始まるパフォーマティヴな講義となりました。
まず講義の始めに司会者が、磯前先生が用意した講義の要約を次のように読み上げました。「本講義、日本の昔話や怪談にあらわれる「見るなの禁」を手掛かりに、人間が社会の中で、何を見ない事によって生きているのか、そして見てしまった者は、その後どのように生きれば良いのか、を問うものである。」この前言に続いてレジュメの全四章の要約が述べられてから、磯前先生の講義がスタートしました。では、その章立てに沿って講義の概要を報告していきます。
第一章「夕鶴―見るが裏切りになる謎」では、木下順二の鶴と人間の婚姻譚「夕鶴」を題材に、禁を破って見たことで破綻する「自然(鶴)と人間」の関係が問われます。そして、動物や穢れや死を見ないことで保たれる人間の社会秩序(共同体)が、「差別」によって成り立っていること、またタブーを破って見た者は本人自身も共同体からタブーとされて、差別されることが論じられます。
第二章「牡丹灯籠―フロイトとユング、世界への転移と世界からの逆転移」では、「転移」がテーマとなります。「転移」とは、自分の主体性を手放し、世界や他者に預けてしまう(支配されてしまう)ことであり、責任を「他のせいにする(転嫁)」や「依存する」ことでもあります。講義では、自分が転移(支配/依存と信頼の両義性)に気づいて、そこからどう解放されることができるかが問われます。自分を追放した世界への恨みは「世界への転移」であり、それに憑依されることは「呪い」にかかることなのです。
第三章「青髭—幻想からの目覚め」は3項あり、第1項の「青髭―世界の裂け目」では、青髭から部屋の鍵束を受取った新妻が「開けてはいけない」部屋の鍵を使って先妻たちの死体を見てしまった物語から、転移という罠や呪いに陥らないためには「他人の鍵はもらわない。自分の鍵は他人に渡さない」ことが、他人に憑依されず自分の魂も明け渡さないための倫理だ、という教訓を引き出します。2項の「福島の幽霊—死者の沈黙に声を聴く」では、見る事だけではなく「沈黙の声を聴く」ことによって初めて語ることが成り立つ、という傾聴の論理を解明していきます。第三項の「この地上に尺度はあるのか」では、技術的な研究に対して「学問は魂にかかわる学び」だとして、講師自らのあり方を問い直していきます。
第四章「コトドワタシーイザナキ・イザナミ」では、コトドワタシ(≒言ど渡し?)という「死者の声を聴いてもそれを盾にせず、役割は引受けるが同一化は拒み、言葉を渡して去る」という行為を、「見るなの禁」の最短の反転だとして、1項では日本の戦後における「傀儡天皇論」と「GHQの占領論」という見るなの禁を通して、その幻滅に耐えての覚醒について語ります。そして2項の「悲哀をかみしめる」では、死者に生かされる自分や見えないものを語る学問の必要が述べられ、3項の「「世界」の「呪い(=転移)」を解く」では、世界という幻想からの自由なることの意味が問われていきます。
そして、恩師の藤間生大が遺言とした「見るべきものを見つ(壇ノ浦合戦での平知盛の言葉)」を引いて、「見た事を記憶したまま、口にせず生き延びる」「幻想こそが浮世に生きる原動力」というダブルバインドの存在・人間を再定義するコトドワタシをして、講義を終えられました。
その後の質疑応答も予定時間を越えて行われ、充実した講座となりました。報告の最後に私的な感想を述べておきます。講座の題名にある「研究者失格!」とは反語的な意味合いで、磯前先生は講義全体を通じて、技術だけで魂のない研究者に対して、学問とは魂に関わる学びであり、「学問とは、死者の声を聴き、語れないものを語る営みである」と宣言しています。講義後に気づきましたがこの学問のあり方は、上原專祿の「死者との共存・共生・共闘」「死者のメディアになる」という言葉とぴたりと重なります。ですので、この上原專祿の「死者・生者」論も含み込んで、磯間先生が今後どのような「魂にふれる学問」を展開されていくのか、見るなと言われても見ざるを得ない、目が離せない展開を期待して待ちわびるばかりです。 (担当スタッフ)