令和八年四月十一日(土)、大竹晋先生の一日集中講座『菩提と覚―仏教における覚醒の概念の歴史』が開催された。本講座は、インド仏教における菩提の概念の歴史をたどり、さらに中国仏教、日本仏教における覚の概念の歴史を学ぶ内容となった。
はじめに、「目覚め」という語源(ブット)を確認し、「菩提がブッダによって説かれた法の体系(有為法・無為法)において、いかなる法であると考えられているのか」と先生は述べられ、講義が開始された。以下、省略して報告いたします。
①インド仏教
まず、上座部・説一切有部・唯識派といった部派、学派の伝統においては、仏・独覚・声聞の別々の菩提を得ること、菩提はおおむね智であると説かれていることを確認した。
ところが、部派・学派の伝統と別個に現れた大乗経においては、菩提は「真如(そのとおりのまこと)」と説かれており、大乗仏教独特の真理として、あらゆる法(枠組み)に内在すると考えられている「空性(からっぽさ・無自性)」を指していることを説明された。また、これにもとづいて、唯識派(ヴァスバンドゥ)は後に、菩提は真如であると説かれるようになるが、菩提は智であるという説と、菩提は真如であるという説とが別々に採用されている(あくまで如来の真如のみが法身であり、あらゆる有情の真如は法身ではない。法身は如来のうちのみにあり、法身の別名である菩提も如来のうちのみにある)、と解説された。
②中国仏教
玄奘によってインドから移植された唯識派である法相宗においても、菩提は智であるという説と、菩提は真如であるという説が別々に採用されていること(インド的アイディア)、また、法相宗の開祖(慈恩大師基)が、真如は菩提における性(本性)であり、智は菩提における用(作用)としている(体用、中国仏教的アイディア)ことを指摘された。
次に、唯識派において、智は有為法のうちに含まれ、真如は無為法のうちに含まれているから、智=真如というわけではないが、『大乗起信論』(以下『起信論』)では、「菩提は智である真如である(菩提が真如と説かれ、それがさらに色にとって空しからざる本性である智)」と説かれ、真如にもとから大智慧光明があり、真如を如来蔵、法身とし、本覚とも呼ばれていることを説明された。また、唯識派においては、如来の真如(如来の内のみ)が法身と呼ばれ、そのような法身を菩提としているのに対し、『起信論』においては、あらゆる有情の真如が法身(=本覚、=智)と呼ばれ、法身があらゆる有情の中にある、とその相違を明かし、『起信論』の特徴を解説された。
③日本仏教
日本においては、『起信論』の「菩提は智である真如である」という考え方を空海が採用し、智である真如である法身が理智法身(法身説法たる密教の教主・自性受用仏)と呼ばれ、その後、理智不二法身とされるようになったことを指摘された。
最後に、本覚思想への疑問として、「真如は空性の別名であるから、もし真如が智であるならば、空性が智であることになる」、「真如は有情と無情(非情)とを問わず世界に遍満しているものであるから、もし真如が智であるならば、あらゆる有情に智である真如があるのみならず、あらゆる無情にも智である真如があることになる。『起信論』においては、そこまで説かれていないが、日本仏教においては、現に無情成仏(非情成仏)が説かれるようになった。しかし、それは空理空論というものである」と主張された。そして、菩提に対する仏教の考え方が、インド・中国・日本で異なっており、その異なりに対する細やかな配慮が望まれることを述べ、講義終了となった。
本講座は、対面とリモートの両方で行われ、多くの方が参加された。聴講者の質疑に対して、丁寧に応答して下さった先生には心より感謝申し上げます。
なお、先生の著作、『仏のなりかた』(二〇二二、春秋社)、『大乗仏教と小乗蔑視』(二〇二四、国書刊行会)等も参考にしていただければ幸いです。(スタッフ)