菅野博史先生「『法華経』『法華文句』講義」(通算94回目)が、3月30日(月)午後6時半より開講されました。今回の講義範囲ですが、テキスト『法華文句(Ⅲ)』の838頁1行目の「問う。一雲一雨と一音とは同異いかん」から、「薬草喩Ă品」が終わる840頁の最後までです。経文の範囲は、「是くの如く迦葉よ、仏の説きたまう所の法は譬えば大雲の、一味の雨を以てするが如く」から、「汝等が行ずる所は、是れ菩薩の道なり。漸漸に修学して、悉く当に成仏すべし」までになります。
今回の経文は次の通り、「仏の説法は一味の雨のように同じものだが、それぞれ聴く者のレベルに見合った対機説法に聴こえて、それぞれに見合った悟りの道に導く。仏はいつも譬喩という方便を使って仏道を開示するが、今はあなた達のために最も大切な真実を説こう。あなた達が行じている仏道は、実は「菩薩の道」にほかならない。よく修学して皆すべて仏になりなさい」という内容で、『薬草喩Ă品』を終えています。
この随文釈義として『文句』は、「質問する。同一の雲・同一の雨と同一の音声とは、同じであるのか違うのか」と問う事から始まります。この答えは「仏は同一の音声によって(衆生の多様な)種類にしたがってそれぞれ理解させる。今、同一の雲・同一の雨は、まさしく衆生の多様性にしたがっての同一の音声である」として、「『大智度論』は、一つの音声によって、多くの音声に答えることを明らかにしている」と説明します。
この「一つの音声によって多くの音声に答える」という点が重要です。その後の解釈では、仏の一つの音声が「実で、無差別」であり、衆生が聴く多くの音声が「方便」であり「権で、差別」であるとして、説法における仏と衆生の無差別・差別が論じられています。問題は、一つの音声の説法が、それぞれの機根に合った対機説法になれるのだろうか、という疑問です。また、仏の説法が同じ一つで平等だとしても、結果としてはそれぞれの機根に従っての悟りしか得られない差別の温存になってしまうのではないか、という批判的指摘です。
しかし経文では、この無差別・差別論につづき、仏は「最実事を説く」として、「諸の声聞衆は、皆滅度せるに非ず。汝等が行ずる所は是れ菩薩の道なり。漸漸に修学して悉く当に成仏すべし」と述べ、実は声聞衆の修行も「菩薩の道」であり、声聞も「菩薩」であり、皆が菩薩であるとする平等性が明かされています。
その後の質疑において菅野先生は、批判仏教の松本史朗先生の「薬草喩Ă品」の譬喩が差別的だとして「仏の説法という同じ雨が降っても、三草二木という違い(機根・種姓)の差別はなんら変わらない」という見解に対する答えとして、この『法華経』の説く皆成仏道の平等性を挙げて、「一仏乗を説く『法華経』の教えにしたがうべき」として、松本説に反論されて、講義を終えられました。
今回、レジュメでは『授記品』に入る予定でその内容が用意されていましたが、次回となりました。4月27日の次回は、『文句(Ⅲ)』の842頁冒頭の「授記品を釈す」からです。途中からでも充分ついて行ける講義ですので、ぜひ御聴講ください。(担当スタッフ)