去る平成30年11月17日に法華仏教講座の第二講として、講師・上杉清文先生による「《蓮密》をめぐる諸考察」が開講された。この講義は、歴史学者の上原專祿氏が「日蓮の教義の中に日蓮密教的な、いわゆる「蓮密」と言われるものが非常に強くあります」と述べた《蓮密》を鍵言葉として、真言密教と天台密教そして本覚思想が影響をあたえた芸能領域を含む密教思想史を独自な視点から語り尽くすという、たいへん壮大なものであった。
上杉先生は、戯曲家らしくこの講義を六幕ものに仕立て上げて、その一幕ごとに多くの参考資料を添えて詳しく説明していかれた。その概要を簡単に述べると、次の通りである。
まず、1【蓮密】で幕が上がって日蓮密教の諸相を提示し、2【本覚】と「本覚思想」、3【大楽】で「本有思想(理趣経)」の基本を押さえた上で、4【東密】で「真言立川流」、5【台密】で「玄旨帰命壇」という密教における最高形態である悟りと性愛の秘儀について語り、その豊かな密教思想性が日本の芸能にどのように影響したかを6【狂言】において解明して、最後に南蛮伴天連の呪文を唱えて講義の幕を下ろされたのだった。
そのレジュメには、上杉先生の該博な知識からリストアップされた参考文献が並べられ、項目ごとの資料にはこのテーマを理解するための適切な辞書的説明と引用文が載せてある。それらを熟読玩味することによって、二時間ほどの講義では説明しきれなかった上杉先生の考える膨大な課題領域を把握することができる。今回、講義の参考文献と資料の多さを考えると、おそらく受講者自身が講義を契機としてこの問題に取り組むことを、講師の希望として促していたのではないか。
興味深かったのは、講義中に述べられた「自問自答」という言葉である。2【本覚】の参考文献として上げられている『孤独の発明 または言語の政治学』(三浦雅士、講談社2018年)の序文にも、「孤独すなわち私という自問自答」という説明があった。三浦は「孤独とは自分で自分に話しかけること」であり、「人は言語によって孤独になり、孤独になることによって言語を得た」という。言語とは、自分と相手を俯瞰できる空からの第三の視点を「私という現象」にしたことであり、その意味で「私が世界の起点」になり、その私という「孤独のなかにすでに他者との関係、すなわち社会が含まれている」と述べている。つまり、一見閉じた「孤独の自問自答」こそが、世界に開かれるのではないか。そう考えると、第三の神仏の視点を内在化した本覚や本有という思想も、「孤独」や「自問自答」という視点にも重ねられて、そこから捉え直すことができるのではないだろうか。
講義の質疑と懇親会も大いに盛り上がり、刺激に満ちた講義を上演して頂いた上杉先生にはあらためて感謝申し上げ、また次回の講義も期待しております。有難うございました。(スタッフ)