講座「歴史から考える日本仏教② 《顕密問題》を考える」第2回講座報告

講座「歴史から考える日本仏教② 《顕密問題》を考える」第2回講座報告
2018年11月20日 commons

11月20日火曜日18時30分より、平安時代における「顕密」関係の成立と題しまして菊地先生による講義が開催されました。以下概略を報告致します。第二講は皇慶が出てくるまでの内容を中心にお話がありました。

先ず始めに顕密体制にとっての平安時代9世紀の仏教を考え、顕密体制としてこの時代をどう捉えたのか、

また、「顕密(理解が粗雑な部分を含む)」と、「顕密体制」と言うことは分別して考えるべきとして、黒田顕密体制論を、もう一度考え直す必要性を述べられました。

黒田氏の顕密体制説では、平安時代の 9~10世紀が顕密時代の基礎、 10~11世紀にかけて本格的な顕密体制が形成されるとして、密教の導入時期としては、最澄空海が始まりとしています。

奈良時代・南都六宗「(華厳宗・法性宗・法相(唯識)宗、三論宗・倶舎宗・律宗・成実宗」に、天台・真言宗加えて八宗となります。聖武天皇が東大寺華厳宗(盧舎那仏)の宗派思想を政策的に取り入れるために、華厳宗を指名し、その教理に基づいて仏教各派を統合化する考えや、華厳宗を中心に考えた政治を行っていました。

東大寺内にある学衆院?では、一人の僧侶が複数の宗を学ぶ事は一般的で、聖武天皇の本願は、六宗が共に切磋琢磨し仏法を習い、全ての宗派が存続し一宗派のみが突出せず、仏教各派全体が滅びない事が仏教の繁栄に繋がると考えていました。また、平安時代では、「宗を統制しない」考え方であり、 国家は宗派には関知せず、 仏法そのもの正邪勝劣にはついては無頓着でした。

黒田氏は「八宗の基になるものは鎮魂呪術的な密教であるとしており、また鎮魂呪術と密教をイコールと考え、密教を高く評価して、八宗が各々別の宗として連立して存在しているというよりか、八宗全ての中に基本的に密教が体制として浸透し、八宗そのものが密教化していった」との説明をしています。顕密問題は、教理的にも歴史的転化を追う必要性がある事と、黒田説での顕密体制の出発点としては、9世紀奈良時代における最澄と空海の入唐求法が日本への密教導入時期であるとして、最澄空海のあとは、円仁・円珍・安然が 相待し密教的に統合化し、その始まりは安然によって形成されていったとしています。

黒田氏は、八宗の基盤は鎮魂呪術的な密教であったとしていますが、菊地先生は、「鎮魂呪術そのもの自体がイコール密教ではないので、その点は注意する必要がある」と説明されました。そして菊地先生は「身口意の三業は実践修行として捉え、先ず理密を理解した上で、それを実践することが事密の世界であると理解した方が良いのではないか。つまり、実践修行がすなわち鎮魂呪術(密教)とするのは議論の矮小化になってしまう、身口意三密の修行を事密の世界として法説するべきではないか」との説明がありました。

さらに、黒田氏は「山林修行も鎮魂呪術」としているのが、「鎮魂呪術的信仰が三密の修行」として捉えるべきなので、それは首肯できない、とのお話がありました。

伝教大師は法華一乗思想による教相判釈に立っていましたが、対して空海の立場は円密一致でした。

円仁は、教判において平等一大円教論を述べる一方、相待観は顕密の二教と事理の二密を区別して、三乗教を顕教、一乗教を密教として密教の内に理密だけの法華経等と事密・理密を具備した事理倶密の大日教等を区別し、また円珍は一大円教論を踏まえながらも顕劣密勝の思想を示し、安然は一大円教論に立脚しながらも、一切の仏教を網羅分類して、一仏一時一処一教に集約される壮大な体系の内に統合し、天台宗でありながら、自ら進んで「真言宗」と称していった経緯をあげ、密教的要素に根付いた形で法華一乗思想から真言密教へと進化していった流れを説明して頂きました。

(以上黒田1994.P62から主旨引用。また、最澄から安然までは師弟関係で結ばれていますが、天台教学史としては安然で一段落とし、次の安然から皇慶迄には100年の間があります。通史的には安然の後は、良源・源信へと続き、浄土教への隆盛が盛んになっていきます。)

今回の講義では、顕密体制の発生時期を最澄・空海の活躍した9世紀として捉え、それまでの南都六宗体制に天台・真言が加わり「八宗体制」となって、その淵底には密教があったこと、その後にその顕密体制に浄土教が関わりながら、天台宗でも密教化が進み、伝教大師による法華一乗思想を覆していった過程を知る事が出来ました。

報告は以上です。(スタッフ)