譬喩品「時諸子等 各白父言」~[3]訓読の確認。660頁4行目。梁の武帝は仏教を擁護した。その頃、光宅寺法雲・開善寺智蔵とともに梁の三大法師といわれた「荘厳(寺・僧旻)は」から。「因の万行」は原因、あらゆる修行のこと。「上求」は仏陀の悟り菩提を求める。「下化」衆生を教化する。衆生の中の最も尊い存在を仏という。
インド仏教は初めに五道、後に六道とする。両者の違いは四番目に阿修羅を入れるか。阿修羅はゾロアスター教の光明の神から来ている。仏教では三悪道より上だが、阿修羅を入れて四悪趣、四悪道という生存領域になる。
「私に謂わく」弟子灌頂の考えを述べる。具度は午車の付嘱、装飾のこと。続いて群盲撫象のたとえから諸法実相は、すべての事相、悟りの世界を見た有様。
662頁8行目~。機が求めることは理解できるであろう。機とは、仏と感応し合う衆生の構え、あり方。仏は尽智・無生智をといて、阿羅漢はその果を得ているから六神通(神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通)の天眼通で未来を見ると、三界外部の不思議変易の生死輪廻が広大であることを見て、自らの証を疑う。
664頁1行目~。「浄名」維摩詰〝ヴィ〟は離れる。〝マラ〟は穢れ。ヴィマラキールティは清らかな名前という意味。玄奘三蔵は〝無垢称〟と訳した。664頁13行了(スタップ)