最終回となる磯前順一先生の講座「震災転移論―末法の世に菩薩が来りて衆生を救う?」が、三月十三日(月)に開催されました。今年の三月十一日は、大震災から12年目、被災死者の13回忌になります。磯前先生は、この講義の三日前から福島のいわき市に行かれて、現地での取材を終えて講義当日での帰宅でした。そのこともあって、今回の最終講義「想いをかたちにして伝える いわき——人間の主体化論」では、福島の今の空気を伝えながら、これまでにふれた傾聴・差別・死者・転移・翻訳不能の問題をまとめるかたちで、私たちにとっての救済とその主体化への道を呈示してくれました。
講義は、今回も取材に行った「いわき温泉古滝屋」の二十畳の私設展示場「考証館」での話から始まります。考証館には、原発事故がいかに一瞬に街を変貌させたか分かる、浪江町の今と以前の連続捨写真が展示されています。磯前先生は今のいわき市を、平等を享受する日常(同類・意識)である「世俗世界」と、差別・無視される死者(異類・無意識)のいる「聖なる世界」という、二つの世界が混じり合った独特の場所と見ます。そしてその二つの世界の葛藤の「救い」として、「コトドワタシと黄泉がえり」があることを指摘するのです。
「コトドワタシ」とは、記紀神話での夫イザナキが死者となった妻イザナミに「離婚を宣言」する場面のことで、これによりイザナキは黄泉から日常に還ることができた、という話です。磯前先生は、このコトドワタシが、死者(無意識)のもつ台本(クリプト=スクリプト)に生者が引きずり込まれることなく、適正な距離を置いて、共に在ることができる、日常への帰還(済度)と見るのです。そして、南三陸や石巻にある祈りの場に比べて、原発災害を被った福島との決定的違いを、「福島における追悼施設の少なさは、いまだ自分たちの死者をコトドワタシする気持ちや状況になっていない」と指摘します。
コトドワタシは、「死者と生者が共に在る」ために、また生きる者が主体化するために必要ですが、それには「死者(他者)の苦しみに対する(自分の)無力さに裏打ちされてこそ、その呻吟する声が耳に入ってくるようになる」(『公共宗教論から謎めいた他者論へ』194頁)という体験が不可欠なのです。磯前先生は、福島県楢葉町の宝鏡寺・早川篤雄住職(原発避難者訴訟原告団長、故人)の飼い犬で、緊急避難で一時放置されたクマちゃんこそ、置き忘れられ言葉を奪われ、社会的死者とされた福島の震災原発被災者を体現している象徴的存在だった、といいます。最後に磯前先生は、「手をつないで、ともに月をみる」「絶望の認識からしか、生の希望は生まれない(藤間生大)」という言葉と共に、人(生者)と人(死者)そして人を超えたもの(神仏)が共に在ること、私を越えたものの言葉(謎めいた他者の言葉)で、私が語りつづける必要があることを伝えて、六回の講義を締めくくりました。
その後、一時間にわたり受講者との質疑と感想・意見の場が続きましたが、私たちはこの六回を通じて人間の悲惨の現場を訪ね歩くことで、絶望の中での「魂の救い」とは何かを深く学んだように思います。その絶望の中でこそ「菩薩」は現れ、「済度」は見えてくるのでしょう。「救う」という思いよりも、自分自身が「すでに救われている」ことの自覚をもっと持つ必要がある、と強く感じた連続講義でした。 最後に、このようなライブ感あふれる多声的で実験的なご講義をして頂きました磯前先生、共同司会をして頂きました菅陽子さん、そして熱心に聴講・参加頂きました受講者の皆さま、誠に有難うございました。そのご尽力に深く感謝いたします。この講義の台本となっていた論考は、今秋の頃には「木立の文庫」より書籍として発刊されるとの事です。楽しみにしてお待ちください。