講座「『法華経』『法華文句』講義」第41回講座報告

講座「『法華経』『法華文句』講義」第41回講座報告
2021年10月25日 commons

2021年10月25日(月)菅野先生の「『法華経』・『法華文句』講義」が常圓寺様にて対面講義にて行われました。

今回は十如是を四段階(「十法界」「仏法界」「離合」「位」)によって釈する内容を中心に講義されました。(430頁1行目から)

ここでは講義の前半部分について、講義メモを要約してご報告します。

 

第一に、十法界に焦点をあわせるとは、六道・四聖が十法であるということである。法は無量であるけれども、十法界を超えることはなく、一々の界のなかで、また多くの分かれ出たものがあるけれども、十如を超え出ない。

地獄界から仏界の十界それぞれが、その当地にもともと十如是を備え、欠けるものがなく一々の界にみな九界の十如があると知るべきである。

十界互具についてはは説くことができ、示すことができるが、どうして「止止」という絶言歎を待つのであろうか、ということについては、

一のなかの無量について、凡夫は備えるけれども、理を断ち切って心が迷う。二乗は備えるけれども、捨て去って解脱を求める。菩薩は備えるけれども、照らすことが普遍的でないので、不了了と名づける。如来は明らかに見て、横(一のなかの無量)があり、縦(無量のなかの一)があり、横と縦をどちらも備え、ただ自分だけ明了であり、他の人が見ないものなので、述べ示すことができない。

「止止」という、言葉を絶することの趣旨はここにあるだけである。『法華玄義』のなかに説いた。今詳しくは記さない。

 

第二に仏法界に焦点をあわせて解釈すると、

  • 仏界は相でもなく、不相でもないけれども、「如是相」と名づける。万善という縁因仏性を指すので、下の文に、「多くの宝によって装飾する」とあるのは、その意義である。
  • 仏界は性でもなく、不性でもないけれども、「如是性と名づける。智慧という了因仏性を指すので、下の文に、「大白牛がある」とあるのである。
  • 仏界は体でもなく、不体でもないけれども、「如是体」名づける。実相という正因仏性を指すので、下の文に、「その車は高く広い」とあるのである。
  • 仏界は力でもなく、不力でもないけれども、「力」と名づける。菩提道心、慈しみという善根の力などを指すので、下の文に、「さらにその上にほろがさを張る」とあるのである。
  • 仏界は作でもなく、不作でもないけれども、「如是作」と名づける。自由で働きを超えた無功用道を指すので、下の文に、「その速いことは風のようなものである」とあるのである。
  • 仏界は因でもなく、不因でもないけれども、「如是因」と名づける。四十一位を指すので、下の文に、「この宝乗に乗って四方に遊ぶ」とあるのである。
  • 仏界は縁でもなく、不縁でもないけれども、「如是縁」と名づける。一切の菩提を助ける道を指すので、下の文に、「さらに侍従が多く、これを護衛していた」とある。
  • 仏界は果でもなく、不果でもないけれども、「如是果」と名づける。妙覚は明らかに円因の獲得するものを指すので、下の文に、「まっすぐ道場に至らせる」とあるのである。
  • 仏界は報でもなく、不報でもないけれども、「如是報」と名づける。大般涅槃を指すので、下の文に、「無量の汚れのない清浄な果報を得る」とあるのである。
  • 仏界は本でもなく、末でもないけれども、「本末」という。本は仏の相、末は仏の報であり、自行の権智である。仏界は等でもなく、不等でもないけれども、「究竟等」という。実相を指すので、標章に「実相」とあるのである。自行の実智である。実智そのままが権智であるので、「本末」という。権智そのままが実智であるので、「等」という。これは如来の自行の権実二智であり、最もすぐれている。

 

第三に離合(分離=展開と統合)に焦点をあわせるとは、もし仏心において観察する十界の十如は、すべて無上の相である。ないし無上の果・報である。ただ一つの仏法界であり、海が万の川の流れをすべて収めるように、千車が一つの轍を共有するようなものである。これは自行の権実二智である。

もし随他意であるならば、九法界の十如是がある。とりもなおさず化他の権実二智である。化他にまた実智があるけれども、みなたばねて権智とする。自行にまた権智があるけれども、みなたばねて実智とする。これは自行・化他の権実二智である。

随他意においては展開し、随自意においては統合する。

ただ仏と仏とだけがはじめて究め尽くすことができる。凡夫は誹謗して信ぜず、二乗は迷い悶えて受けず、菩薩は塵と虫との区別、杌と人との区別についてまだ明らかでない。この意義のために、「止止」といって言葉を絶する。

 

第四に位に焦点をあわせるとは、

「如是相」とは、一切の衆生にみな実相がある。もともとある。まさに如来蔵の特徴である。

「如是性」は、性徳の智慧、第一義空である。

「如是体」は、中道法性の理である。

以上を法身・般若・解脱の三徳とする。十法界に共通して、一々の位にすべてある。

もしこの三徳を磨いて、十信の位に入るならば、「如是力」・「如是作」と名づける。

四十一地に入るならば、「如是因」・「如是縁」と名づける。

もし仏地に到達するならば、「如是果」・「如是報」と名づける。

最初の三つ(如是相・如是性・如是体)を「本」と名づけ、最後の三つ(如是縁・如是果・如是報)を「末」と名づける。最初と最後は同じく三徳であるので、「究竟等」という。

(437頁最終行まで)

 

次回は11月29日(月)を予定しています。

後期講座は「対面講義」を予定しています。いまはコロナ感染も底を打っている状態ですので、よほどの急変がない限り久々の「対面」となります。もちろん、移動等が御心配で参加できない方にも後で動画配信にて受講ができますのでご安心ください。

(スタッフ)