令和2年5月19日(火)、菊地大樹先生による法華コモンズ仏教学林2020年度後期【歴史から考える日本仏教⑤】〈承久の乱から考える日本仏教〉第2講・補講が、Zoomの機能を用いた撮影による動画で配信されました。
今回のご講義のテーマは「承久の乱と鎌倉武士」です。
前回までの講義を承けながら、「承久の乱」惹起の経過・様相を、最新の学説を吟味し、歴史学者・菊地先生の視点から細説してくださいました。そして、「承久の乱」の前後で、鎌倉幕府や武士の置かれた立場や状況がどう変容したのか、熊谷家4代(直実─直家─直国─直時)の事例をクローズアップしながら極めて具体的に語ってくださいました。
今回も、微に入り細に穿った素晴らしいご講義でした。
院政期における関東武士と、京の朝廷や大貴族との関係。現代とはおよそ異なる、平安期からの社会システムや社会通念の変遷。領主の階層の特徴。初期鎌倉幕府において東国武士中心に御家人が形成されていった様相。武士の勢力図に変化をもたらし関東武士の御家人としての地位を確立していった治承寿永内乱(源平合戦)。それに続く「承久の乱」では、更に武士の位置づけと朝廷のあり方に大きな変容を来したこと。御家人もこの乱を境に西国に広がり、なし崩し的に成立した軍事政権である鎌倉幕府が統治権者へ脱皮し、院政が収め取り得ない状態が現出したこと──など、極めて重要なポイントを、熊谷家の具体例とともに明確化してくださいました。
また、熊谷家に関して、髙橋修先生の最新の学説を吟味され、歴史的事件の数々を逐い、史料を精確に読み解きながら、菊地先生ならではの鋭い視点から、熊谷家の系図、武蔵熊谷家の成立、熊谷家と源氏・平氏・朝廷側・北条氏、あるいは関東武士との関わり、承久の乱の前後の様子、また、法然教団との関わりなどなど、微細にご教示くださいました。
中でも、『吾妻鏡』等の説示に依った、流鏑馬の射手と的立をめぐる源頼朝と熊谷直実の遣り取り、奥州合戦(1189)を通した熊谷家の活躍の様子などの解説は興味深いものでした。
また、建久2年(1191)に熊谷直実が庶子真(実歟)家に譲ったとされる所領の現地比定に関する考証や、『吾妻鏡』建久3年の記述の問題点についての指摘は、歴史学者の精密な思考法の一端を受講者へ具体的に教授してくださる形でもありました。
今回、第2講・補講全体を通して、先生は、次のように講義をまとめられました。
○ かつて鳥羽院が祖父白河院政を継承したように、後鳥羽院は祖父後白河院から院政を継承した。しかしながら、時代状況が異なっていたのであり、特に、武家の成立とは何かという点を、東国の在地状況まで見据えて深く認識するという視点が欠落していたこと。
○ 後鳥羽院は芸術的感性も豊かで政務への意欲も旺盛であり、基本的には鳥羽院のような調整型の人物であった。但し、帝王としての正統性に不安があり、院政の特徴である専制的性格を抑えられなかったこと。
○ 後白河院は、しばしば鷹揚な性格が指摘されるが、幕府との交渉は粘り強く進め、内乱を切り抜けた。一方、後鳥羽院は、列島の統治権者として成長していく武家の存在を等身大で認めることができず、あくまで伝統的な院政の枠組みに収め取り、コントロールしようとして破綻したこと。
○ 幕府も、武家という国家公を構成する統治権者としての意識の確立に伴い、院政の失政を容認せず、後鳥羽王朝の否定という、朝廷の形そのものを根本的に変革するような処断(皇位継承への介入)にまで進む段階に達していたこと。
今回も、日蓮聖人の時代を正確に理解していくための貴重な土台を摑み取ることができ、受講の機会を得られた有難さを噛み締めております。
この第2講・補講は、前2講同様、1ヶ月間アクセス可能な動画配信です。この時代を掘り下げて知りたい方、日蓮聖人についての理解を深めたい方には、是非とも受講をお薦め致します。大変貴重な機会です。
次回第3講は、6月16日(火)午後6時30分~、今回同様Zoomを用いつつ、法華コモンズ初のオンライン授業として執り行われます。(スタッフ)