去る10月24日(木)午後6時30分より、講座「これからの天皇制」の第一回講義「天皇制の「これから」をめぐって―その呪縛からの自由」が開催されました。評論家で劇作家でもある講師の菅孝行先生は、初等科から高等科までを学習院で過ごした縁もあって、1970年代から天皇制批判の著作が多く、最新刊の『三島由紀夫と天皇』(平凡社新書)では三島の作品を読み解くことで、昭和天皇の人間宣言から始まった戦後史の欺瞞を暴きながら、諫死に至った三島の思想と行動を明らかにしています。
講義はまず、社会的動物である人間は共同体(≒国家)を生み出し、その維持には「超越的な虚構(支え)」を必要とするという原則をおさえ、日本において「これまでの天皇制」が国家の権威の源泉として保たれてきたことを確認します。そして、「これからの天皇制を考えることは、日本における国家の権威の源泉の運命を考えること」であり、また別の国家のあり方や別の「共同」のあり方を考えることだとして、天皇制の「これまで」と「これから」そして「これからのゆくえ」までを、以下のように大きく三つに分けて話されました。
【これまでの天皇制】 一般的に近代国民国家における「支配」には、①市場原理(資本制)、②法による統治(政治権力)、③幻想の共同性(支配の正当性を内面化するもの)という3つの位相があり、天皇制は、その中の③の役割を担って近代国家日本の統治に不可欠の要素とされてきた。では「これまでの天皇制」はどういうものかというと、明治維新から敗戦までは憲法の下で統治者・軍の統帥を持つ総覧者・最高権威の現人神として「万世一系の神の国」という信仰を国是とする中心であった。つまり絶対主義的な神権天皇制である。それを補強したのが「教育勅語」「軍人勅諭」や国体論また大逆罪、治安維持法だった。しかし敗戦による新憲法下では「象徴」となり権力を喪失したが、君主制は護持された。この象徴天皇制としての存続は米国占領政策の「日本計画」によるもので、これにより今に至るまで日本が自発的に米国の国益に従属する構造が創り出された。しかし、天皇が戦争責任を免責されたことは、復員した兵士達に「命令した天皇さえ訴追されないなら、その命令で従軍した自分たちも加害責任はない」との加害意識の欠如を与え、また訴追されなかったゆえに戦勝国アメリカへの親愛感が生まれて、加害者意識も被害者意識も持たない「鈍感」な日本人になった。私たちはこうした鈍感さを許さない政治的・歴史的想像力を奪回しなければならない。国際社会には、同盟国だったドイツが行った戦後処理(巨額の戦後補償とヴァイツゼッカー演説)という基準がある。今なお問われる天皇制国家の日本の歴史的責任(植民地支配と侵略戦争)を終息させるためには、われわれの無自覚を清算する必要があるだろう。
【これまでからこれからへ】 戦後において対米従属を国是として繁栄した日本だが、米国の凋落とともに様相が変わり、今は経済的にも軍事的にも米国の国難に奉仕せざるをえない〈従属〉となった。現政権が戦後民主主義を捨てて米国の国益に寄り添う中で、護憲と民主主義の戦後を守る明仁天皇の発言が多くの国民や左翼陣営からも支持される状況が生まれた。しかし、どれほど良心的な天皇がいても、制度の邪悪さ・欺瞞性に阻まれる(天皇は政治的発言を禁じられ、国政の権能は政府にある)ので、ガス抜きしか期待できない。「天皇制」とはそうした「制度」であり、天皇が「個人」たりえないのが天皇制という「幻想の共同性」である。だから重要なのは、私たち主権者が幻想として抱いてしまう「排外主義」や「天皇」という〈とらわれ〉をいかに始末するかにあるのではないだろうか。
【これからのゆくえ】 「天皇制のこれから」とこれからの行方を見出していくには、権力や資本などの垂直的な規定力を超える、「隣人同士の相互の信任を形成する」ことが不可欠になる。現代において隣人の相互信認を組織化するための闘いの場となるのは、労働の場だけでなく「労働力と生命が再生産される場」であり、幼児保育や学童保育、学校や医療機関、障害者・高齢者施設や生活相談の場などが私たちの「陣地」となる。またそれ以前に、DV被害や貧困などの難をしのぐアジール(避難所)や駆け込み寺を作ることが求められる。天皇制という「制度」をなくす前段階において必要なのは、そうした活動の場において「隣人相互の信認関係」を創り出すことである。〈傷つき〉からの回復を可能にする共同体、〈外〉に敵を探すのではなく「〈外〉に敵を探すことへと人々を駆り立てるもの」を〈敵〉とする共同体、そうした国家の共同性に依拠しないコミュニティの組織化だけが、天皇制の呪縛から自由になるための対案たりうる。そのために、「幻想の共同性との闘いの敵」は自己の内部にいる、という自覚が大切となる。
以上、「これまで」から「これから」、そして「そのゆくえ」までが提案されて講義が終わりました。質疑応答では時間を越えて多くの質問と意見が続き、また終了後の懇親会の場においても論議が続くなど、大変に刺激に満ちて啓発される会となりました。講師先生には長時間のお付き合いを厚く感謝申し上げます。
次回は、11月28日(木)午後6時半よりの第二回、講師は原武史先生の「「平成流」とは何だったのか」が開催されます。テキストとして『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波新書)が原先生より指定されていますので、必ず事前に読んでご参加ください。宜しくお願いいたします。 (文責:スタッフ)
講義はまず、社会的動物である人間は共同体(≒国家)を生み出し、その維持には「超越的な虚構(支え)」を必要とするという原則をおさえ、日本において「これまでの天皇制」が国家の権威の源泉として保たれてきたことを確認します。そして、「これからの天皇制を考えることは、日本における国家の権威の源泉の運命を考えること」であり、また別の国家のあり方や別の「共同」のあり方を考えることだとして、天皇制の「これまで」と「これから」そして「これからのゆくえ」までを、以下のように大きく三つに分けて話されました。
【これまでの天皇制】 一般的に近代国民国家における「支配」には、①市場原理(資本制)、②法による統治(政治権力)、③幻想の共同性(支配の正当性を内面化するもの)という3つの位相があり、天皇制は、その中の③の役割を担って近代国家日本の統治に不可欠の要素とされてきた。では「これまでの天皇制」はどういうものかというと、明治維新から敗戦までは憲法の下で統治者・軍の統帥を持つ総覧者・最高権威の現人神として「万世一系の神の国」という信仰を国是とする中心であった。つまり絶対主義的な神権天皇制である。それを補強したのが「教育勅語」「軍人勅諭」や国体論また大逆罪、治安維持法だった。しかし敗戦による新憲法下では「象徴」となり権力を喪失したが、君主制は護持された。この象徴天皇制としての存続は米国占領政策の「日本計画」によるもので、これにより今に至るまで日本が自発的に米国の国益に従属する構造が創り出された。しかし、天皇が戦争責任を免責されたことは、復員した兵士達に「命令した天皇さえ訴追されないなら、その命令で従軍した自分たちも加害責任はない」との加害意識の欠如を与え、また訴追されなかったゆえに戦勝国アメリカへの親愛感が生まれて、加害者意識も被害者意識も持たない「鈍感」な日本人になった。私たちはこうした鈍感さを許さない政治的・歴史的想像力を奪回しなければならない。国際社会には、同盟国だったドイツが行った戦後処理(巨額の戦後補償とヴァイツゼッカー演説)という基準がある。今なお問われる天皇制国家の日本の歴史的責任(植民地支配と侵略戦争)を終息させるためには、われわれの無自覚を清算する必要があるだろう。
【これまでからこれからへ】 戦後において対米従属を国是として繁栄した日本だが、米国の凋落とともに様相が変わり、今は経済的にも軍事的にも米国の国難に奉仕せざるをえない〈従属〉となった。現政権が戦後民主主義を捨てて米国の国益に寄り添う中で、護憲と民主主義の戦後を守る明仁天皇の発言が多くの国民や左翼陣営からも支持される状況が生まれた。しかし、どれほど良心的な天皇がいても、制度の邪悪さ・欺瞞性に阻まれる(天皇は政治的発言を禁じられ、国政の権能は政府にある)ので、ガス抜きしか期待できない。「天皇制」とはそうした「制度」であり、天皇が「個人」たりえないのが天皇制という「幻想の共同性」である。だから重要なのは、私たち主権者が幻想として抱いてしまう「排外主義」や「天皇」という〈とらわれ〉をいかに始末するかにあるのではないだろうか。
【これからのゆくえ】 「天皇制のこれから」とこれからの行方を見出していくには、権力や資本などの垂直的な規定力を超える、「隣人同士の相互の信任を形成する」ことが不可欠になる。現代において隣人の相互信認を組織化するための闘いの場となるのは、労働の場だけでなく「労働力と生命が再生産される場」であり、幼児保育や学童保育、学校や医療機関、障害者・高齢者施設や生活相談の場などが私たちの「陣地」となる。またそれ以前に、DV被害や貧困などの難をしのぐアジール(避難所)や駆け込み寺を作ることが求められる。天皇制という「制度」をなくす前段階において必要なのは、そうした活動の場において「隣人相互の信認関係」を創り出すことである。〈傷つき〉からの回復を可能にする共同体、〈外〉に敵を探すのではなく「〈外〉に敵を探すことへと人々を駆り立てるもの」を〈敵〉とする共同体、そうした国家の共同性に依拠しないコミュニティの組織化だけが、天皇制の呪縛から自由になるための対案たりうる。そのために、「幻想の共同性との闘いの敵」は自己の内部にいる、という自覚が大切となる。
以上、「これまで」から「これから」、そして「そのゆくえ」までが提案されて講義が終わりました。質疑応答では時間を越えて多くの質問と意見が続き、また終了後の懇親会の場においても論議が続くなど、大変に刺激に満ちて啓発される会となりました。講師先生には長時間のお付き合いを厚く感謝申し上げます。
次回は、11月28日(木)午後6時半よりの第二回、講師は原武史先生の「「平成流」とは何だったのか」が開催されます。テキストとして『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波新書)が原先生より指定されていますので、必ず事前に読んでご参加ください。宜しくお願いいたします。 (文責:スタッフ)