講座「歴史から考える日本仏教② 《顕密問題》を考える」第5回講座報告

講座「歴史から考える日本仏教② 《顕密問題》を考える」第5回講座報告
2019年2月19日 commons

2月19日火曜日18時30分より、「日蓮の真偽未決遺文と「顕密」」と題しまして、菊地先生による講義が開催されました。菊地先生は冒頭、「なぜ真偽未決遺文に注目するのか」という意味について、近代歴史学は「太平記は史学に益なし」(久米1990)として偽文書や文学作品を排除してきたが、いま転換しつつあることに触れ、むしろ「こうした偽文書・偽経・真偽未決遺文は仏教色を豊かにしていく可能性を秘めている」ことを示唆され、『日蓮の真偽未決遺文には、どのような方法で検討を加えていくのか』 について御講義されました。以下報告致します。

 

レジュメ第一章の「日蓮遺文への三つのアプローチ」では、「宗学・歴史学・史(資)料学」 の三つに分けてその違いを説明されました。

(1)「宗学」的アプローチでは、宗祖の著作(御遺文)を中心にその教学を研究する方法として「伝統宗学」と「近代宗学」との違いを説明。伝統宗学では、各宗門の中で決めた教学的枠組を逸脱せず、宗門公認の権威あるテキストを祖述するが、宗祖以降の教学思想が入り込んでくる可能性を指摘。また近代宗学とは、宗祖が考えていた「~だったかもしれない」「~にちがいない」というところまで批判的に追求しながら、答えが決めにくい難題(アポリア)に対して信心を基に究極の真理を探求する試み、と説明。しかし、末輩の弟子達や教学者の宗祖以降の教学が、宗祖の教学を越えることは絶対にあり得ず、また宗祖の教学を正しく継承しているかが評価軸であり、門下のオリジナリティは「更に理解が進んだ」と認められる程度での評価しかあたえられない。また、伝統宗学では宗祖以後の教学を単なる祖述として一方的に下降するものとして排除(無視)する傾向があり、また近代宗学では時には宗門の公式見解に齟齬しても、宗祖の意思に違わない「正統」かつ「純粋」な教学とは何かということを追及していく傾向があると指摘されました。

 

(2)「歴史学」では、「正統」や「純粋」に拘りすぎることを基調とした理念を前提とした観点から考えると、近代宗学では門流や宗派間による軋轢が互いにあることや、必ずしもこれが祖師の教学を正しく把握する最高の方法なのか、唯一の方法なのかを考えなければならないし、そこに偏ってしまいがちになれば、本来の祖師(鎌倉時代に生きた日蓮)の教学を見えなくしてしまう部分もあるかもしれない、そうした注意も必要だと、お話しされていました。

また「偽文書の作成」する意図について、何故そうした「嘘」をついてまで、上古から偽文書を作成する動きがあったのか、その背景には意味が隠れているが、偽文書作成の執筆者の意図とは、どういう意味や目的があるのか、例えば、1、特権を守るためには、由緒自体は古いほうが良い、そのため時代的操作や書きかえを行い、偽文書を作成する。2、偽文書を作る側の意図とは、最終的にあるその一点の結論に意義を繋げていきたい、との意思が盛り込まれているので、文書自体に権威つけが付加されていくことの意図がある。こうした背景も踏まえて上で、受容して研究の対象とすることは、それがまた未来から見たときの、「ものさし」 になり得る可能性もあり、また、作成者がどの競合相手を想定して作られた偽文書なのか、その背景をさらに分析し探っていくことによって、偽文書が作られた同時代の様々な状況が分かるため、排除するよりむしろ取り込んだ上で、研究を進めていく未決遺文の鑑定方法は、『仏教色を豊かにしていく利点もある』と説明がありました。

 

(3)「史(資)料学」では、歴史的な事実を確定しようとする時には、幾つかの選択肢があり、遺された史料を検討し、疑う事実がないところまで近づけていく。史料的に限界な部分もあるため、従来の史料を見直したり時には判断を保留にすることもあるので、だからといって、永遠と議論し続けることはなく一旦終止符をうったりすることもあると説明がありました。 ただし歴史観を求められた場合では幾つかの選択肢のあるなかから、主観的にこれを選択肢としたことを証明して仮定と事実を明らかにし、更に議論や検討を重ねていく方法を示されました。

史料学や書私学文献学は、これまでは補助学としての位置付けがあったが、日蓮遺文を一篇ごとに区分せず、日蓮遺文をすべて一つの括りとする方法では、例えば、「諸法実相抄や立正観抄」など最蓮房に与えられた遺文を、「最蓮房遺文」と名付け、史料を「群」として分別していく方法がある事、また、「系年・対告衆・場所・時期」などの分類を行なって、史料内容の検討を行う方法などを示されました。更に遺文を受けとる側の背景が、「個人か集団か、弟子や旦那か、或は幕府執権」など、何のために与えられ、どの様に使われていったのか、史料学独特の領域での検討方法を駆使して、遺文の機能を検討するといった手段を、示して戴きました。

他には「宗祖の正しさ」を評価していく場合、歴史学で複数の事実を確定する際には、周辺的事実も視野に入れ、また真偽鑑定に於いては、二者択一での真偽検討を加える場合と、仮に歴史学の面からの鑑定方法を視野にいれられた場合、二者択一に限らず、複数の選択肢が与えられた、例えば真蹟現存や真蹟曾存、直弟子による写本、孫弟子による写本などの選択肢も研究対象として検討される余地も出てきます。また、真蹟が現存しない場合、「孫弟子」による写本まで時期が下る場合には、その写本の史料的信憑性が低くなるため、他の史料との対照検討も、慎重に作業を行う必要があるのかも知れないと思いました。

 

講義後半は、本尊番号1「楊子御本尊」・本尊番号8「一念三千御本尊」、「不動愛染感見記」の史料を挙げられ、更に「念仏無間地獄抄」「最蓮房宛遺文」についての検討を加えられ、続いて、「中世における偽撰遺文の性質」についてふれ、『偽撰遺文自体は、他人を騙すために作成されたものではなく、各時代における宗教的探究が生み出した文献群』であり、また、『真偽未決遺文は、直ちに真正な史料と同列に扱えない意味があるため、正史料以上に繊細な検討が必要』であるとの見解を示されました。

今回、日蓮遺文の真偽鑑定には様々な側面からの検討が必要であることが理解できて、1章を中心に報告しましたが、全体の章立ては2章「日蓮と密教」、3章「不動愛染感見記をめぐって」、4章「その他の遺文をめぐって」でした。日蓮聖人の真言師への批判は衆知の事実ですが、その真言密教の理解では初期に修得された「虚空像菩薩求聞持法」、そして日蓮聖人が大日如来の系譜にあることを示す「不動愛染感見記」の関係性についての説明を受けて、御本尊への不動愛染の勧請を考えると、日蓮聖人自身の密教理解と受容が、後の曼荼羅御本尊顕発への深い影響があったとされたのではないか、との印象を持ちました。

 

今回の講義で御遺文の真偽問題を検討する際には、宗学・歴史学・史料文献学も取り入れていく必要性を学んだ事から、現在の日蓮門下においても各宗派独自の優位性は収めて共同研究の場を作り、今後は未公開になっている貴重な文献史料も広く公開が出来る様になり、日蓮教学の更なる研究発展に繋がっていけばいいな、と思いました。

報告は以上です。(スタッフ)