6月19日午後6時半より「中世成立期における山林修業の変質-日蓮の時代へ-」と題して、菊地先生による講義が行われました。講義の始めには、先生より中世期頃の、修行者(法体の入道・斎戒)の成り立ちから、当時どういった役割(活動)をしていたのかなどについて詳細な説明がありました。
今回の講義では古代から中世へと時代が進んで行く過程で、古代の話では、日本霊異記・続日本後記・三代実録などの資料が講義の中心となりましたが、中世に入り10世紀以降から11~12世紀になると、資料の古文書の中にも『山の宗教』の動きや、山林修行者の記述が多く見られてくる様になっていきました。
そして、中世成立期の10世紀では、山の宗教も転換期に入ります。その背景には、当時の一般世間からも山林修行者へ興味の視線が集められるようになっていった様な、日本人の精神的変化があったようです。また行者の修行場にも変化が顕れ、古代では山林と言っても山奥に入って修行をするのではなく、山の麓(入り口から少し入った場所)で行う事が多かったのに比べ、平安期になると、山の上を目指し、山の奥深い所に修行場が変わっていった事も話されました。
また、『遂山林素懐・交山林』というキーワードからは、日蓮聖人の『開目抄』の内、『設ヒ山林ニマシワツテ~』の部分(定遺第一巻~607後5行)を挙げられ、日蓮聖人が山林修行への批判をしていた事例を挙げられました。
講義の後半では、中世山林寺院の成立について、「七高山阿闍梨制」(国史大辞典)を挙げられて、当時の山林修行者の把握の難しさや、山林寺院の機能性についての説明、また11世紀頃の、古代山林修行者の系譜をひく学侶・堂衆・禅衆の役割と活動についての説明があり、山林寺院の管理と深山への侵入を可能にした「ベースキャンプ」を基盤とした活動があった事を示されました。
続いて「里山寺院」について触れられ、『中世の山林寺院』と呼ぶべきかについて、中世では「向山・後山」とも呼称されていたという見方もあって定まらず、現在においても「里山」自体の定義の研究が遅れているとの指摘をされました。
最後に次回の第四講では、同じ山林修行者の中でも持経者と山伏との宗教的立場の違いや、国家権力との対抗意識などについての両者の違いにも触れていきたい、とのお話で講義は終了致しました。(文責:スタッフ)