講座④「『法華玄義』講義」第11回講座報告

講座④「『法華玄義』講義」第11回講座報告
2017年2月27日 commons

平成2月27日(月)、菅野博史先生による「『法華玄義』講義」が行われました。本講義で11回目となります。今回は前回の「『法』の解釈」の後半部分と、「妙」の解釈「相待妙・絶待妙」に関しての講義で、約30人が参加しました。
「『法』の解釈」の最後には、衆生法は広大すぎ、仏法は高尚すぎるので、心・仏・衆生、三者無差別の観点から、己心を観察するというあり方が提示され、その心が衆生・五陰・国土を作っていくという、すなわち『摩訶止観』にて一念三千が展開されていくのと共通の議論がみられるとのことです。
続いて「相待妙・絶待妙」は、「妙」の解釈ですが、「相待妙」とは麁(ソ:粗いこと)と妙、つまり小と大のような比較相対の「妙」のことで、これに対し「絶待妙」はそういった比較を超えた「妙」をあらわします。
『玄義』ではこの「絶待妙」が蔵通別円の四教各々の立場で説かれています。その中で円教の「絶待妙」では「何と名づくるかを知らざれば、強いて言いて絶と為す」との記述にあらわされるように根本的には表現不可能であるとされます。
このように、「互具」の如く、智顗の教学ではある概念をまた別の分類概念に当てはまることが多々あり、特色の一つである「三諦」も、(実は別教以前は中道は説かれないもの)、「蔵」「通」「別接通」「円接通」「別」「円接別」「円」に当てはめられ、「七重の三諦」と言われます。
また実はこの「相待妙・絶待妙」に関しては吉蔵の『法華玄論』等にも見受けられ、吉蔵の師、法朗にも「絶待中」との言葉を用いていたことが報告されています。
「相待妙・絶待妙」との用語が、智顗の手になるものか、吉蔵によるものか、また吉蔵の説を聞いた灌頂によるものかは所説ありますが、「相待」「絶待」の語が他の中国師の釈にも見られることから、独創というより、仏典や論書から形成されるべくして形成された概念であったと考えられます。
ただ『玄義』における「相待妙・絶待妙」は、『法華経』の位置づけという教判思想に深く結び付いていることが特色となります。
次回は、3月27日(月)18:30より「迹門の十妙(1)-境妙」の講義となります。皆さま奮ってご参加ください。
また四月の講義から『法華玄義』上・中・下(第三文明社)の他に、『法華玄義を読む―天台思想入門』(大蔵出版)も教科書となりますのでご留意ください。(文責・編集部)