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去る2月15日(土)午後4時より、講師・澁澤光紀先生による法華仏教講座の第5回「摂折論再考―近現代における論議を通して―」が開催されました。はじめに、平成の摂折論争を導かれて本年1月に御遷化された今成元昭先生の増円妙道を祈りお題目を三唱し、受講パンフのコメントから「今わたし達が担うべき求法と弘法とは何かを考えていきたい」と述べて講義が始まりました。その内容は、まず始めに経典と天台学の解釈から摂受・折伏の語意を見ていき、次に近代の摂折論として『本化摂折論』、現代の摂折論として『折伏経典』を取りあげて解説、その上で平成の摂折論争の意義を見直していきました。以下、レジュメでは5章になるその概要を簡単に報告していきます。
Ⅰ、摂受・折伏の語意について―経典と天台教学から―
摂折の語意の初出は、一世紀頃の『ミリンダ王の問い』にある「折伏の意義」の章にあり、摂受は「ほめられる」、折伏は「心の制御から刑罰まで」の意味で使われている。その中で「盗賊は折伏されるべく」「死刑に処すべき者を死刑にする」と述べられている。その場合に、如来は「教誡者」であり、処刑するのは「為政者」なので、すでに僧と俗が分担する摂折の原型を見ることができる。『勝鬘経』では、「令法久住」のために摂折の布教があるとされており、そのことを護持正法また摂受正法といっている。伝聖徳太子の『勝鬘経義疏』には「重悪をば即ち勢力を以て折伏し、軽悪をば道力を以て摂受す。」とあって、道力(仏法)で軽悪を摂受して、勢力(王法)で重悪を折伏する、という僧俗による王仏両輪の形がここで明確になる。他に各経典には、摂折を「軟語/麁語」、また「自己折伏」など制御の意味で使う用例がある。
天台教学(智顗と湛然)では、経典中に摂折の語句が無くとも、その内容から摂折の語意を新たに解釈しており、『法華経』と『涅槃経』が採り上げられている。その解釈は、布教手段としての「行門」に限らず、「教門」にまで広げられている。行門の解釈としては、『法華経』は「安楽行に不称長短」の摂受であり、『涅槃経』は「刀杖を執持し乃至首を斬れ」の折伏であるとして、「与・奪、途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」(『摩訶止観』)とする。(しかし一向ではなく、『法華経』にも「頭破七分」の折伏があり、『涅槃経』にも「一子地に住す」の摂受があるとしている。)
教門での解釈では、『法華経』が折伏であり『涅槃経』が摂受だと、摂折が逆転する。それは智顗の『法華玄義』に、「法華は折伏にして、権門の理を破す。金沙大河に復た廻曲無きが如し。涅槃は摂受にして、更に権門を許す」の文が論拠となる。しかしこの文は続いて「金沙・百川の海に帰ること別ならず」として、折伏の大河も摂受の百川も同じ円教の大海に帰して一つとなると述べており、『法華経』が一向折伏であると述べているわけではない。また、智顗の『法華文句』と湛然の『文句記』には、「順化」「逆化」「本已有善」「本未有善」「強毒」「毒鼓」「因謗堕悪必由得益」など、摂受・折伏を論じるに欠かせない語句が使われており、これによって摂受と折伏は化儀・化法にわたって解釈可能な概念となった。
Ⅱ、近代日蓮主義の原点―『本化摂折論』を読む
日本における近代国家建設に伴走するかのように、『立正安国論』による日蓮主義を立ち上げた田中智学だが、その日蓮主義の摂折論を「超悉檀的折伏」であるとして、折伏中心の『本化摂折論』を執筆した。天台教学の摂折論を基本としながらも、日蓮聖人が「不軽品は折伏」としたことが「千古の断案」であり、それによって「下種仏教」としての『法華経」が折伏的に発作した、とする。「本化の宗旨は「下種教」であり下種は必ず折伏でなければならない」とするが、その折伏主は末法に日蓮聖人唯お一人で、我々宗徒はその折伏を「主義」として取次ぐのであって、それを日蓮主義という、と述べる。『本化摂折論』では、折伏を主に「下種」の問題として論じて、『涅槃経』の賢王の折伏にはほとんど触れていない。しかし、智学門下の山川智応や石原莞爾は、後に五五百歳の問題として「賢王の出現」を論じている。
Ⅲ、戦後折伏主義の教本―『折伏教典』を読む
戦後における創価学会の「折伏大行進」は、昭和26年11月初版発行の『折伏教典』を手引として行われた。この本は初版以来、学会員の増加に伴って夥しく増刷され改訂がなされている。その第一章は「生命論」であり、戸田会長の生命論が述べられてから、一念三千の法門の説明に入っている。折伏を説明した「折伏論」の章は、全体の長さに比べて驚くほど短い。「我らが受持し奉る御本尊は、自行化他にわたる南無妙法蓮華経である」「自行とは唱題であり、化他とは折伏である」として、折伏が一般的な教化・布教の意味で使われている。「折伏の大利益」では、この折伏により「自分自身の宿命が転換される」とその功徳を述べる。宿命転換は、創価学会教学の鍵言葉として生命論と連動しており、折伏実践によって、謗法による生命力の枯れた不幸な「罰」の当たった宿命(重罪)を消して、永遠の生命である大御本尊から宇宙のリズムと調和した生命力という功徳を頂くことで、生命力旺盛な宿命に転換する(成仏する)、という理論である。典型的な生命主義による功徳論だが、こうした生命主義に裏打ちされた折伏行が集団的に発動されると、自己中心的な暴力的様相を呈する危険性がある。
Ⅳ、平成の摂折論争の意義とは何か
平成11年に今成元昭氏の「日蓮聖人は摂受を本懐としながら、周囲の事情で折伏的実践をせざるを得なかった」という見解によって始まった平成の摂折論争だが、その前に上記の近現代における摂折論とその実践があったことは踏まえなければならない。今成氏の所説の中で、すでに論破されたものもあるが「日蓮聖人は法華折伏破権門理は使わない」など、幾つかはまだ有効である。しかし、一番の意義は、今成氏が、摂折のあり方を『本尊抄』の摂折現行段の「賢王(勢力)折伏⇔聖僧(道力)摂受」に限定したことで、折伏の暴力性について焦点があたったことではないか。この折伏と暴力の問題は、非暴力の不軽菩薩中心の論議によって充分に論じられなかったが、私見では今回の論議において最も現代的意義があるテーマであったと思う。
Ⅴ、まとめと今後の課題
今回は「近代日蓮主義によって到達した折伏主義の再検討と克服の課題」ということを意識しての講義だった。題目による下種という救済において折伏的作法が必須なのかどうか、今日の下種論をもう一度見直す必要がある。また立正安国の実現には、はたして王法の勢力折伏を不可欠とするのか否か(賢王の折伏は後五百歳で終わりとの見解あり)、皆さんのご意見をお聞きしたい。
その後、講師先生の意向で討議の時間となりましたが、日蓮聖人の摂折観をめぐって実に熱心な論議が行われ、また出席者に創価学会員の方や天台学専門の花野充道先生がおられたことからその説明を聞き学ぶことが出来て、充実した質疑となりました。次回は、3月14日(土)午後4時から、西岡芳文先生による「中世の日蓮教団と富士信仰」です。ご聴講宜しくお願いいたします。(スタッフ)
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