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平成30年8月11日(土)新宿・常円寺にて、松本史朗先生による「『法華経』の仏教思想を読む」第5回「「如来寿量品」の「久遠実成の仏」の解釈」の講座が行われました。
松本先生はまず、『日蓮宗読本』『仏教大辞典』による「久遠実成の仏」の説明(無限的存在、久遠実成の釈迦仏、無始古仏とする)からの疑問として、『法華経』では「久遠実成の仏」が覚った場所はブッタガヤである、と明確に述べられていると思われることを解説して頂き、その根拠として「従地涌出品」から三つの箇所を示したあとで、それはおそらく「久遠実成の仏」を「永遠の仏陀」(無始無終の仏)として見なすことにより生じた見解であり、「永遠の仏陀」なら特定の時点・特定の場所もある筈がないと考えるのは極めて自然である、と述べられました。
また、三身説の枠組みで見るのであれば、例えば吉蔵の『法華義疏』では
・無始無終(法身)
・有始無終(報身)
・有始有終(応身)
とされ、「法身」であるならば始めもなく無く終わりもない、とすることは自然である。しかし、この「三身説」は『法華経』成立以後、特に瑜伽行派(唯識派)によって主張された説であって、それを『法華経』の解釈に適用することは、必ずしも適切ではない、と述べられました。
松本先生はその後、「久遠実成の仏」の歴史的な解釈を、『妙法蓮華経(ケルン・南条版梵語テキスト含む)』『正法華経』、日隆『私新抄』、日朝『法華草案抄』、証真『法華玄義私記』などを引用しながら解説して頂き、現在の結論として、
・「如来寿量品」上の「我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽、復倍上数」より、過去の菩薩行の二倍の寿命があるとされている(=その時間が経過すると寿命が尽きて般涅槃に入る)。
・「如来寿量品」上の「寿命無量阿僧祇劫、常住不滅」の「常住不滅」は、梵語テキストによれば過去分詞であり、「常に住した」「滅しなかった」という意味で、「永遠に存在している」という意味ではない
などを挙げて頂き、経文上から解釈する限り「久遠実成の仏」とは「有始有終の仏」として見ることができる、と示して頂きました。次回で最終回となる「『法華経』の仏教思想を読む」第6回は平成30年9月15日(土)となります。多くの皆様のご参集をお待ち申し上げております。(文責:スタッフ)
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