『歴史から考える日本仏教-鎌倉時代を射程に入れて』第2回講座報告

『歴史から考える日本仏教-鎌倉時代を射程に入れて』第2回講座報告
2018年5月15日 commons

第2講目となる菊地大樹先生の講座『歴史から考える日本仏教-鎌倉時代を射程に入れて』は、5月15日(火)午後6時30分より「古代仏教と山林修行」をテーマとして御講義を戴きました。講義のおおよそは以下の通りです。

750年代頃の日本では中国から律令制を導入して、日本の実情に合わせた内容に修正した「大宝律令」や「養老律令」などを成立させた。そして、官職等を追加して仏教政策を確定させていく中で、奈良時代中後期には称徳天皇の崩御によって仏教政策の転換期があったという。
称徳天皇は在位中、山林修行者であった道鏡を登用し、それを受けて道鏡は、山林修行者の活動を積極的に視野に入れた仏教政策を、称徳天皇と共に展開していった。 道鏡と孝謙=称徳天皇(宝亀元年=770年崩御)の関係を見た時、なぜ称徳天皇が道鏡を重用したのかという背景には、天皇自身の父が聖武天皇であり、そして母も藤原氏出身で熱心な仏教徒で、お互いに仏教政策推進派だったという協力関係があったと考えられる。
称徳天皇崩御後、道鏡は左遷され、新政権では僧網により修行者の活動を統制した。これは、道鏡の政策を否定している訳ではなく、仏教政策を新しい時代に繋げていく構想により推進されていたのこと。また山林修行者の危険な一面も注視していた為で、国家による山林修行者への弾圧的な意図はないと見るべき、と先生は指摘されました。『続日本紀』宝亀元年10月・天平宝字8年の勅。
また、十禅律師制の様に、熊野などで修業する山林修行者を国家が認定し、天皇を護持する僧として山林修行者を登用していた事や、国家が仏教政策を推進する上でも、山林修行者の呪術的な能力を大いに活用し、期待をしながらも行者への警戒の意味で、修行者を統制していく意図もあったという。
※看病 (宿曜法) 禅師 (奈良時代では禅師は山林修業者を指す。)
※統制の参考。大宝律令ー僧尼令的秩序、第13条参照。
「僧網」という組織を中心に、僧侶に対しては僧が管理する「官僚制的僧位僧官制の創出」が制定されたという。例えば僧侶による事件があった場合に、国家としては聖職者に対しての直接的な制裁や処分を行う事に対しては憚りがあったり、祟りでもあれば困るので、慎重な対応をするべきとの考えから、こういった組織での役割に対応を委ねられた。
※僧官・僧網・僧位 天平宝字4年 760年の僧位制改革による。
宝亀3年・仏教制度改革。僧網の官僚化によって、僧網は以前よりも都に留まり事務を行わなければならなくなった。そうなると自由に山林修行は出来なくなり、十禅師としての能力は維持ができなくなる為、山林修行者は十禅師に任命し、僧侶の統制役に対しては、僧綱に抜擢してその役割を分担していった。事例(『続日本後紀』承和元年9月条)。
また、前田家本『高野寺縁起』に見られる資料では、真言宗僧における十禅師(山林修行)の初例は、空海であった事をあげられて、更に空海は、内供奉十禅師に補されて後に、高尾峰に「12年」間入籠して山林修行を行っていたという記述のある、大変興味深い資料も提示された。※(『日本三代実録』貞観2年2月25日条)。
また、修行僧にとっての「十二年」と言う意味についても触れて、王権と協力しつつ山林修行者の活動を推進していった空海の弟子、真言僧真雅や真済も同様に、十二年間籠山し山林修行を行っていた事を指摘された。

今回の講義では、山の宗教を古代国家がうまく取り入れる中、呪術に長けた山林修行者を登用して官職を与え、政治の中心的役割の中に位置づけながらも、「統制と保護」と言う二つの観点から山林修行者を管理していったという背景が示されました。「山林修行」とは「本来自由な宗教活動」であり、行者自身も「修行に専念したい」」との意思に任せて修行をしていたということです。
そもそも修行とは、管理下に置かれつつ、不自由な中で行うものでもなく、行者自身の主体性によって行なわれた筈のものですが、国家による「宗教界」への具体的な介入により統制下におかれ、行者の中には「修行者」から「事務職」へと移っていくものもありました。その過程の中で、山林修行者自身の心中に燻っている本来の行者としてのあり方への疑問や、更に国家や社会に奉仕する事への「ストレス」と「違和感」などの葛藤が、どこか読み取れる様な気がしました。
次回第3回目は、6月19日18時30分 からの開始となります。
(文責:スタッフ〉