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平成29年3月18日、花野充道先生の最終講義が行われました。

 

花野先生は、教相と観心の話から始められました。

 

仏さまが真理を悟り、衆生に向かって教えを説かれる。それが仏の教え、すなわち仏教です。真理は本来、言語道断ですから、言語にすることができません。真理を悟って、その境地を自分で楽しんでいる状態が自受用報身です。したがって、自受用身の随自意の語は独り言になります。九界の衆生に向かって「教」を説くのは他受用身と応身です。その「教」の「相(すがた)」を究めるのが「教相」ですから、それは能説の仏と聴聞の衆生という仏凡相対(仏凡而二)が前提になります。

 

「観心」は、心を観察して真理を悟る修行です。真理は色心不二・迷悟不二・仏凡不二ですから、自分の外に仏がいるのではなく、自分の心の中に仏も九界の衆生もいて、その仏凡不二(十界互具・一念三千)の真理を悟るのが「観心」です。日蓮聖人の本尊は、観心の本尊ですから、『観心本尊抄』には「その本尊の体たらく云々」と述べられて、十界の曼荼羅本尊の相貌を示されています。しかし、それは本門の本尊でもありますから、『報恩抄』には、迹門の仏ではなく、本門の仏が本尊だ、と念を押されています。

 

花野先生はこのように説明された上で、日蓮聖人の本尊論は、本門の本尊=観心の本尊=曼荼羅本尊である、と述べられました。そして、若き日に執筆された『戒体即身成仏義』や『色心二法抄』、書写された『五輪九字明秘密釈』の説が、『観心本尊抄』までつながっているとして、妙楽湛然の「身土は一念三千なり。故に成道の時、此の本理に称ひて一身一念法界に遍し」の文と、その文が書かれた八番曼荼羅(無記年、文永九年?)を取り上げて説明されました。

 

最後に、不空三蔵の『成就妙法蓮華経瑜伽観智儀軌』と日蓮聖人の宝塔曼荼羅本尊との関係、行学院日朝上人の『御判形事』に説かれるボロン字の所説、富士の大石寺や北山の本門寺に伝わる「引き題目」などの古態の化儀、について簡略に説明されて最終の講義を終えられました。

 

講義終了後には、修了証の授与が行われました。場所を変えて、懇親会が行われ、一年間の思い出や今後の要望など、さまざまな話に花が咲き、大いに盛り上がりました。

花野先生には一年間のご講義、本当にありがとうございました。

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