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法華コモンズ仏教学林事務局より、ご紹介したい書籍の書評を随時追加してまいります。

『戦後歴史学と日本仏教』オリオン・クラウタウ編 (二〇一六年一一月一〇日刊行) (発行/法藏館)

本書は、敗戦直後から一九七〇年代までの戦後の約三〇年余りの間において、「日本仏教」の歴史像を新たに語り直した一五名の著名な研究者を取り上げて、現在第一線で活躍する一五名の執筆者が、その一人ひとりの生涯と業績について論じた画期的な論考集である。

本書の表紙には、「廃墟の上に立つ仏像」という、長崎原爆投下の六週間後にGHQ兵士が撮った写真を元にして描かれた鉛筆画が載せられている。原爆で吹き飛ばされた長崎の街中を、屈むように見守っている仏像とともに顔を伏せる僧侶が描かれたその絵は、敗戦により焼け崩れた日本にたいして、仏と僧侶がその廃墟の死を悲しみ、過去における責任を詑びて未来における再建を誓っている姿のようにも見える。しかし、すでに敗戦後七二年間という長きに渡る時が過ぎたにもかかわらず、この絵が現在でもなお強い印象を与えるのは、原爆で象徴される戦後がいまだに終わっていないからではないだろうか。

戦後民主主義を領導した丸山真男は、敗戦の八月一五日について「超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し、今や初めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日」(「超国家主義の論理と心理」『世界』一九四六年五月号)と述べて、日本国民が帝国の臣民から近代的な主体へと解放された日と定めた。そしてまた、戦争責任を反省する知識人層を称して「悔悟共同体」と呼んだのだが、敗戦後においてはすべての分野において戦争責任が問われて、同時に新たな戦後の枠組みを作り上げることが要請されていた。当然ながら仏教界においても、「「天皇制国家」を支えた仏教に対する批判と反省」(序文)が求められた。

しかし編者によれば、戦後歴史学はそれまで抑圧されていたマルクス主義史学が主流となって、いわゆる「近代化論」の枠組みによる学問的姿勢で進められたため、反体制的だった近代日本の仏教者達などは評価されたが、天皇制国家に親和的だった「日本仏教」の言説は、「封建的残滓」や「皇国史観」との批判的レッテルが貼られ、内在的な反省がされぬまま機械的に廃棄されて、その歴史的意義についても言及されることがないままだった。だが、二〇〇〇年代以降の近代仏教研究によって、そうした戦前の国家と仏教をめぐる関係についての検討が進んで多くの成果がもたらされたが、敗戦後の「日本仏教」の語り方がどのように変遷したかについては、まだ充分な研究が行われているとはいえない現状だという。

本書は、そうした「敗戦の経験から生じた「日本仏教」の歴史像を解明」して、「「戦後」という枠組みにおける「日本仏教」の再構築を考えようとするもの」(序文)として編まれている。現在の私たちが、戦後に再構築された「日本仏教」をあらためて捉え直すというこの試みは、終わらない戦後を終わらせるための重要な営為となるだろう。

はじめに、本書における編者の視座または編集意図について、少し詳しく見ておきたい。編者のオリオン・クラウタウには、近代国家の形成過程で「日本仏教」の概念がどのように作られてきたかを検証した『近代日本思想としての仏教史学』(二〇一二年九月刊行 法藏館)という著書がある。帯には「「日本仏教」の誕生!」と書かれている。学位請求論文を土台として作られたというこの本において、編者は「仏教」また「日本仏教」という言葉の自明性を疑い、鎌倉新仏教が栄えの頂点に置かれて、近世仏教が堕落し衰微の道を歩んだという「日本仏教」の物語が、近代においていかに造られてきたのかを明らかにしている。

その内容を見てみると、「第一部 国民国家と「仏教」をめぐる歴史叙述」では、原坦山、村上専精、高楠順次郎、そして花山信勝と家永三郎の言説を検討しながら、まず官学の東京帝国大学で「仏教」学が生まれ、次に国民国家の形成に寄りそった「日本仏教」論が「聖徳太子→鎌倉新仏教」という文脈で語られていたことを明かしている。そして、戦後に家永三郎が唱えた「鎌倉新仏教中心論」は、実は戦前からある「聖徳太子→鎌倉新仏教」の図式から、国家仏教につながる「聖徳太子」を外して「民衆」に替えただけ、という重要な指摘がなされている。

つぎの「第二部 僧風刷新と「仏教」をめぐる歴史叙述」では、明治初期の諸宗道徳会盟から戦後の圭室諦成の「葬式仏教」論まで扱いながら、「近世仏教堕落史観」という見方が、実は廃仏毀釈と維新の激動を乗り切るために仏教側こそが必要としたものであり、「鎌倉に還れ」という祖師仏教への復帰運動に付随したものだったことを明かしている。

以上のようにこの編者の前著では、近世を踏まえた明治維新期から戦後の初期までの、「鎌倉新仏教中心」と「近世仏教堕落史観」という二大パラダイムによって特徴づけられる日本仏教史学が述べられている。したがって、編著ではあるが『戦後歴史学と日本仏教』と名づけられた本書は、この『近代日本思想として仏教史学』の続編として位置づけられるもので、戦後から現代にいたるまでの「仏教史学」を人物別に再検討したものである。

著書と編著の違いはあるが、その共通する視座は、「日本仏教」の常識や自明性また前提となっている言説を疑うことである。編者の序文にも「この「常識」を疑うことは、いわゆる言語論的転回以後の世界において、「日本仏教」の叙述を構想するうえでも必要な作業であろう」とある通り、編者は現在では常識となった一五名による戦後歴史学の学知の構造を、括弧に入れて「疑おう」と試みている。いや、それのみならず編者は本書をとおしてここに示される戦後歴史学の常識を、読者自らが「疑う」ことをも求めているといえるだろう。

ここで使われる「言語論的転回以後の世界」とは難しい言い回しだが、辞書の説明によれば「言語論的転回」の意味とは、言語は事物に貼られたラベルではなく逆に言語によって現実が構成されているのであって、現実について我々が知ることができること全てが言語によって条件付けられていると主張した言語学者ソシュールの影響のもと、フランスの構造主義・ポスト構造主義によって広まった反省的な知のあり方だという。しかし私が思うにこの言葉は、おそらく文学者の柄谷行人が『近代日本文学の起源』(一九八〇年 講談社)において述べた「風景の発見」ということに近いのではないか。そこで説明される柄谷の批評的態度が、「言語論的転回」を踏まえた編者の視座と同じなのではないかと思う。また、そうした視座を手に入れた二人の立ち位置が共通性していることもうかがえるので、「風景の発見」とはいったい何かにふれながら、編者の視座についてみていきたい。

柄谷は『近代日本文学の起源』の「風景の発見」の中で、漱石における漢文学と英文学をめぐる「文学」概念の危機にふれて、次のように述べている。

「漱石がまず疑ったのは、英文学が普遍的なものだという考えである。もちろん漱石は漢文学をそれに対置し、相対化するというようなことを考えたのではない。彼は何よりもまず、この普遍性がアプリオリなものではなく歴史的なものであること、しかもその歴史性(起源)そのものをおおいかくすところに成立していることを指摘する。~略~ 漢文学と英文学を比較することは、「文学」=「風景」そのものの歴史性をみないことになる。つまり、「文学」や「風景」の出現においてわれわれの認識の布置そのものが変わってしまったことをみのがすことになる。私の考えでは、「風景」が日本で見出されたのは明治二十年代である」。

そして柄谷は、その「風景の発見」を可能にしたのは「言文一致」という近代的な制度であったことを指摘している。「風景」はいったん成立すると、その起源は忘れられて、以前からあったもののように扱われるが、しかしそれは初めからあったのではない。同書において柄谷は、「内面」「告白」「病」「児童」という言葉についても、その発見過程(歴史性)を究明していき、日本近代文学の起源におけるその閉ざされた制度性を明らかにしている。

この本のあとがきで、柄谷は「“ありうべき誤解をさけるために一言”いっておきたい。それは、『日本近代文学の起源』というタイトルにおいて、実は、日本・近代・文学といった語、さらにとりわけ起源という語にカッコが附されねばならないということである。」と述べている。括弧に入れるとは、現象学でその用語に対して「判断停止」して先入観を持たずに吟味することをいうが、たとえば日本を括弧に入れるというのは、内から見れば自明である日本を、外から見る(疑う)ために「日本」と表記する。同時に表記した者が「日本」を吟味する批評的立場にあることも表すことになる。こうした柄谷の『近代日本文学の起源』での成果が契機となり、日本近代の言説をみなおす言説論という研究が盛んになったといわれるのだが、編者もまた「日本仏教」や「戦後歴史学」を括弧に入れて、その「常識」と化している自明性を疑うという、同じ批評的視座にいるのではないかと思う。

また柄谷は、文庫版のあとがき「著者から読者へ―ポール・ド・マンのために」の中で、山口昌男が推薦文に「柄谷行人氏の方法は、すべてを根源的に疑ってかかるという現象学のそれにもとづいている」と書いたことに言及し、「私はこの時期「現象学」についてはほとんど知らなかった。しかし、外国にあって、外国語を話し、外国語で考えるということは、大なり小なり「現象学的還元」を強いるものである。つまり、自分自身が暗黙に前提している諸条件を吟味することを強いる。だから、山口氏のいう「現象学」とは、~ いわば異邦人としてあることなのだと思う」と述べている。

この共同体の外部にあるという異邦人性も、編者のクラウタウが共有している側面だろう。編者は、『近代日本思想としての仏教史学』の「あとがき」において、「「他者」の言語で初めて「自己」を表現していく物語」である小説『ブタペスト』の主人公に共感したことを書いている。それは、編者もまた異邦人としてあったことを意味する。つまり、日本仏教の内からではなく、異邦人としての外からの視線だからこそ根源的にその自明性を疑うことができた、ということなのだ。

編者のこうした視座を確認した上で、いよいよ本論の紹介に入って行きたい。序文で編者は次のような紹介をしている。「本書では、マルクス主義歴史学の「勝利」としての敗戦から始まり、一九六〇年代のアカデミズム批判を経て、公式主義的な歴史学への反省がもたらされた一九七〇年代まで「日本仏教」の研究をリードした十五名の営みが戦後日本思想史の文脈で回顧されている」。そして、論考一つ一つについて短く論評を加えているのだが、私にはとてもそれぞれの論考を評できる力量も用意もない。したがって、この書評では各論考の中扉にあるリード文を引くことで紹介に当てたい。おそらくこうしたリード文は執筆者が書いたかチェックしたものであり、執筆者自身の簡単な内容紹介として最適だと思う。一五名の研究者を論じた各論考とそのリード文は、次の通りである。

 

○「家永三郎」―戦後仏教史学の出発点としての否定の論理―   末木文美士

家永三郎の『日本思想史に於ける否定の論理の発達』(一九四〇年)は、西洋におけるキ

リスト教をモデルに、仏教がもたらした現実否定を日本思想史の画期と見ることにより、戦後隆盛を迎えた鎌倉新仏教研究の基盤となった。その功罪を検討しつつ、今日における再評価の可能性に説き及ぶ。

○「服部之総」―「生得の因縁」と戦後親鸞論の出発点―     桐原健真

戦前の日本資本主義論争における講座派の中心人物として知られる服部之総は、宗教を「民衆の阿片」と断ずるような自他共に認めるマルキストであった。しかし戦後の彼は、親鸞・蓮如論や真宗改革論を次々と著していく。それはかつての論争敵手であった三木清と真宗寺院の長子という彼自身の出自に導かれたものであった。

○「井上光貞」―焼け跡闇市世代の歴史学―           平 雅行

落伍した名門子弟である井上光貞は、没落する中下級貴族に共感し、みずからを彼らに重ね合わせながら浄土教史を構築した。その研究には、敗北の時代を、矜持をもって生き抜いてほしいとの、戦後社会に対する井上のメッセージが込められていた。井上光貞の研究の魅力と陥穽がここにある。

○「圭室諦成」―社会経済史の日本宗教研究―          林  淳

一九三〇年代に資料編纂所の若手の研究者がつくった日本宗教史研究会は、二冊の本を残して霧消した。社会経済史的方法を宗教史に導入しようとした野心的な試みは、戦後歴史学の展開のなかで見過ごされたようである。研究会の中心にいた圭室諦成が構想した社会経済史的方法による日本仏教史の可能性を問う。

○「古田紹欽」―大拙に近侍した禅学者―            大澤広嗣

鎌倉時代に中国から伝えられた禅仏教。禅は、その後の日本文化の形成に重要な役割を果たした。古田紹欽は鈴木大拙を師匠と仰ぎ。思想史と文化史の視点から禅仏教を研究したが、彼は、特定の宗派からの立場ではなく、広い視座から仏教を捉えていた。禅学研究のみならず、日本文化研究に大きな影響を与えたのである。

○「中村 元」―東方人文主義の日本思想史―          西村 玲

大日本帝国の多くの思想家からすれば、太平洋戦争はアメリカをその代表とする「西洋」と、日本を中心とする「東洋」との対決であった。しかし敗戦による帝国の解体によって「東洋」そのものの意義も変遷するなかで、中村元は「仏教」の視点から、戦後の新たな普遍性において「東洋人の思惟方法」を位置づけようとした。

○「笠原一男」―戦後歴史学と総合宗教史叙述のはざま       菊地大樹

真宗教団発展の研究から出発した笠原一男は、やがて戦後歴史学との葛藤のなかから農民戦争論を克服し、思想史としての親鸞の、社会経済史として一向一揆の研究に向かってゆく。この二本の柱で笠原は煩悶しながらも、総合的宗教史叙述を構想するに至り、新宗教の研究や後身の育成に力を入れてゆく。

○「森 龍吉」―仏教近代化論と真宗思想史研究―         岩田真美

森龍吉は社会学者であり、戦後まもなくレッドパージを受けたが、その後、龍谷大学教授などを務めた。森はマルクスやヴェーバーの論理を取り組みながら、浄土真宗を中心とした研究を行い、日本の近代化と宗教の関係を考えることで、戦後社会における仏教のあり方を問い直そうとした。

○「柏原祐泉」―自律的信仰の系譜をたどって―          引野亨輔

近代仏教史の先駆的研究者として知られる柏原祐泉は、同時に近世の排仏論・護法論、中世の親鸞思想など、多端な素材に挑み続けた人物でもあった。本稿では、「宗教の自律性」や「仏教の本来性」など、柏原が多用したいくつかのキータームに着目し、精力的な彼の仕事を支えた問題意識の根幹に迫った。

○「五来 重」―仏教民俗学と庶民信仰の探求―          碧海寿広

寺院や僧侶からではなく、庶民の信仰から描き出す日本の仏教史。その斬新な歴史像を、柳田国男の民俗学を援用しながら構築したのが、五来重であった。庶民の救済に役立たない仏教など無用、と信じた彼の仏教民俗学の実践の背後には、民衆の願いから離れたときに仏教は堕落していく、という独特の歴史観が常にあった。

○「吉田久一」―近代仏教史研究の開拓と方法―          繁田真爾

戦後歴史学に人間の生の次元を組み込みながら、歴史の深部にまで光を当てようとした吉田久一。“日本資本主義に仏教はどのように対抗しえたか”と問い続けた彼の近代仏教史研究は、戦時下のセツルメント活動や沖縄戦の経験に原点があった。彼の方法と批判知から、私たちはどのような可能性を汲みとることができるのだろうか。

○「石田瑞麿」―日本仏教研究における戒律への視覚―       前川健一

石田瑞麿は、戦後の日本仏教研究の中で、一般的関心が高かったとは言えない戒律に対する研究で異彩を放っている。その研究は、古代仏教の菩薩戒から中世・近世の戒律の諸相にまで及んでおり、基礎的研究としての価値は高い。しかし、石田は一方で、非僧非俗を仏教者の理想としており、その戒律研究は未完のままに終わった、

○「二葉憲香」―仏教の立場に立つ歴史学―            近藤俊太郎

皇国史観と唯物史観、その両者との格闘のなかで自らの立場と方法を獲得していった二葉憲香。二葉は、仏教の根本的立場とその歴史こそが仏教史であると把握し、歴史を超える信の立場が、歴史のなかにどのような主体を確立して歴史・社会と対決していったのかを、学問的に、そして自らの生において確かめようとした。

○「田村芳朗」―思想史学と本覚思想研究―            花野充道

日本仏教研究者はおおむね歴史学者と教理学者に分類できる。前者が実証的であるとされるのに対して、後者はその護教的な傾向が否めない。しかし戦後、東京大学に新設された日本仏教史講座の初代教授となった田村芳朗は、天台本覚思想や鎌倉新仏教の成立に関して、その二つの世界をまたぐような業績を示すことに成功した。

○「黒田俊雄」―マルクス主義史学におけるカミの発見―      佐藤弘夫

戦後歴史学をリードしたマルクス主義史学では、宗教は上部構造に位置づけられるものであり、自立した存在基盤をもたない虚偽意識にほかならなかった。しかし、黒田俊雄の親鸞に対する強い思い入れは、そうした基本構造そのものの変容をもたらし、それが黒田の学問に、独自の色合いと魅力を付与する源となった。

 

本編を通読して思うのは、個々の研究者が担った戦後における日本仏教史学の広がりと

その多様さである。始めの家永三郎の「鎌倉新仏教論」から、その常識となった定説を覆し

た最後の黒田俊雄の「顕密体制論」にいたるまでの一五人の戦後歴史学を担った巨匠たち、

その一人ひとりの熾烈な研究人生が紹介された内容に強い感銘を覚えざるを得ない。編者

は、「本書に収められた研究者のほぼ全員は、戦前の段階で展開されたような学知を相対化

しつつ、近代主義的な日本仏教像を目指した」という。個々の論考についての論評はとても

出来ないが、序文における編者の指摘を参考にしながら、私なりに諸論考の共通項を中心に

して気になったところを述べていきたい。

まず最大の共通項としては、敗戦国・日本の新たな文化的課題としての「反省と再建」があったことだろう。すでに編者によっても何度も指摘されているが、《反省》としては「敗戦による天皇制国家主義の否定」があり、それを支えた平泉澄などの「皇国史観」や「封建主義」や「軍国主義」また「全体主義」への徹底的な批判があげられる。そして、その反省を主導する《再建》の主役として、戦前に抑圧されていた「マルクス主義」や「社会主義」「自由主義」などの民主的勢力の復権と隆盛があった。特に「戦後歴史学」の流れにおいては、マルクス主義の影響は圧倒的であって、「マルクス主義史学」または「唯物史観」による学知によって戦前の皇国史観や軍国主義的な思想は、断罪されて廃棄されていった。例えば、田中智学の日蓮主義も戦争遂行の思想的戦犯として否定され、長く言及されることさえ憚れるようになった。

日本の民主化はGHQの占領政策でもあって、「日本」そのものを変容させて行ったが、こうした戦後の主導的な理念となったのが、一切の封建的遺制を廃棄する「近代化」である。はじめに引いた敗戦時の丸山真男の言葉に「今や初めて自由なる主体となった日本国民」とあったが、敗戦は日本人が封建的な奴隷の臣民から国民へと、はじめて解放された日であった。M・ウェーバーは宗教改革から始まる近代化を「呪術からの解放」と言ったが、丸山によれば敗戦によって日本人はやっと封建的な天皇制という呪縛から解放されて、近代化を進めるスタートに立てたということなる。こうした丸山真男や大塚久雄などの近代主義者が、戦後における進歩的知識人として戦後民主主義をリードしていった。こうした中で、戦後歴史学と日本仏教においても「近代化論」が進められ、封建制の批判とともに、「親鸞の精神をはじめとする浄土哲学」や「江戸期の仏教思想」が近代化の源泉として採り上げられ言及されていく。

「親鸞・浄土教」が近代化論の文脈にそったかたちで多く採り上げられた理由の一つに

は、やはり戦後歴史学のスタートにおいて家永三郎が、キリスト教の否定の論理で他力思想を解釈しながら、プロテスタントの宗教改革を重ねての鎌倉新仏教を称揚したことが、大きな影響を与えたからだろう。本書に登場する研究者をみても、親鸞・浄土教に言及する者は多く、それを主題として取り上げているのは、一五名のなかでは家永三郎、服部之総、笠原一男、森龍吉、柏原祐泉、石田瑞麿、二葉憲香、黒田俊雄と、半分を越えた八人となる。

また「近代化」ということについては、本書の中でも戦前の一九三〇年代(昭和五~一

四年)にマルクス主義の広範な影響力があったことが述べられている(一〇六頁)。そのマルクス主義流行期における研究者たちの年齢についてみれば、圭室諦成や服部之総はすでに二〇代後半から三〇代で強い影響下にあったが、一九一六年生れで同い年の笠原一男、森龍吉、柏原祐泉、二葉憲香、その一つ上の吉田久一、一つ下の石田瑞麿などは一〇代後半から二〇代にかけての多感な年齢であり、森龍吉ほどに影響されなかったにしても他の研究者たちもマルクス主義の洗礼という時代的な影響は受けていたに違いない。

しかし、親鸞とマルクス主義ということでは、一九二六年生れで一五名の中では最も若い黒田俊雄に言及する必要があるだろう。論者の佐藤弘夫によれば、終生マルクス主義の信奉者であった黒田の中世研究は、石母田正『中世的世界の形成』の領主制理論を受け入れるところより始まるが、やがて生産様式の実態把握と収奪される民衆の視点から、国家権力を公家・武家・寺家が分掌して民衆を支配したという「権門体制」論を唱え、そして国家権力を支えた「顕密体制」こそが中世仏教界の「正統」であり、鎌倉仏教は「異端」であると主張して、通説となっていた鎌倉新仏教中心論を否定してみせた。

しかし佐藤は、黒田の関心は「当時の伝統仏教界=顕密仏教界に対峙した親鸞」にあったのであり、その学問は「親鸞を位置づけるためのより広い歴史的文脈を探り出すなかで作り上げられていった」のではないかと指摘する。そして、いわば親鸞は圧倒的な勢力を誇る仏教界を批判した正当な「異端」であり、逝去により叶わなかったが黒田の最終的な目的は、「中世という時代を背景にして親鸞思想のきらめきを見出すこと」だった、と推測している。

佐藤の言うように、黒田の最終目的が「親鸞思想のきらめき」を書き残すことだったとしたら、その言説はまた中世思想史を書き換えるような衝撃を与えたのではないだろうか。というのは佐藤も指摘するとおり、黒田の「顕密体制論」には「国家の存立と支配に果たす超越的存在の役割を的確に認識し、それを歴史の構想に組み込んだ」ところがあり、それは「人間を越えるもの(カミ)が歴史に果たす役割」を認識していたからにほかならない。そうした黒田の歴史学は、単純な「唯物史観」や「近代化論」を批判こそしなかったが、すでに超えているところにあったといえるだろう。それは、また黒田が活躍した一九七〇年代が、実存主義から構造主義へ、モダンからポストモダンへと移る時代であったこととも関連していたはずだ。

コーネル大学教授で日本思想史の酒井直樹は、民衆思想史というジャンルを創った安丸良夫を語る座談会において、早くから近代化論批判に着手した安丸について触れながら、自らも次のように語っている。

「戦前の日本の知識人の多くは、近代化すれば自分もだいたいヨーロッパ人と同じになると考えていた。~ それに対して戦後の知識人にはそのような普遍主義的な視野がなくなり、~ 日本のユニークさあるいは凄さを語るという、日本文化論に典型的に現れる方向に流れてしまった。~ その背後には、戦後は日本の知識人が、戦後の冷戦体制と米国依存体制の下で、知の植民地体制を内面化してしまったということがあるのではないでしょうか。つまり、日本の知識人は、自らを非植民者あるいは原住民の立場に位置づけ、植民地の主人の立場に立つ西洋知識人を仰ぎ見るようになってしまった。これは、現在でも、日本だけでなく、アジアやアフリカの知識人に広く見られるポスト・コロニアルな徴候です。~ 戦後、このような知の植民地体制をもっとも積極的に推し進めてきたのが近代化論でした。ですから、近代化論では、「西洋」は普遍主義的であるのに対して、日本を含む「非西洋」は特殊主義的である、ということを前提に話が進められてきた。」(『現代思想』9月臨時増刊号 総特集「安丸良夫」 二〇一六年)

酒井直樹もまた、略歴に「日本出身の歴史学者」と書かれるような、異邦人性を備えた視座の持ち主である。したがって、日本の中から見れば「普遍主義」のように感じる「西洋」近代とは、自民族中心主義(エスノセントリズム)を隠した一つの「西洋という特殊主義」に過ぎず、近代化という普遍主義とは、それによって西洋が非西洋を支配するための知の植民地体制にほかならない、と見ることができたのだろう。しかし、「近代(モダン)から「後近代(ポストモダン)」という情況は、そうした西洋近代の同一性が崩れはじめて、前近代の非西洋と近代の西洋という普遍主義を装うことが出来なくなってきたことを示すのではないだろうか。

ともあれ、こうした「近代化論」批判をふまえたうえでいま一度、「普遍主義」とは一体何かを考え直す必要があるだろう。戦後歴史学が近代化という刷新を目指したのは、封建的とされた皇国史観などの天皇制国家主義の克服が課せられていたからであり、そこで基準とされたのが、封建的で恣意的また主観的な国粋思想を否定し去る、唯物史観や科学的実証主義に裏打ちされた「合理性」や「客観性」や「普遍性」だった。しかし、信仰を問題とする宗教においては、こうした客観性や普遍性をどう獲得するのかが問われるだろう。

こうした問題について、「田村芳朗」を論じた花野充道は、田村が「祖師の思想を信仰的・超歴史的に考察する宗門大学の宗学に対して、より客観的・歴史的に考察する思想史学の方法をもって研究を進めた」ことを紹介している。つまり「教団の信仰」と「学問の独立」を厳格に分けて、あくまで客観的な思想史研究の学者として一線を引いていたという。また最終講義では「その研究方法を一口にいえば、客観的にして主体的、主体的にして客観的ということ」であると、自らその方法論を明かしている。厳密な「客観性」を求めるのは分かるとして、ここで問題になるのは「主体的」の中身ではないだろうか。

同じく「主体」を強調しながら、客観性と主体性を融合させようとしたのが、二葉憲香だったといえる。「二葉憲香」を論じた近藤俊太郎は、その研究姿勢について「二葉は、仏教史を把握するうえで、研究主体が仏教的主体を成立させることの重要性を繰り返し指摘した」という。そして「この仏教的主体の成立を仏教史研究の前提とする二葉仏教学は、研究主体にとって自己の信仰が厳しく問われる構造となっているため、一部の宗教的達人向けの方法のようにさえ映じてくる」と述べている。そして、こうした二葉仏教史学がなお説得力を失わないのは、困難とはいえその研究による「仏教的主体の確立」があるからだと指摘する。こうした二葉の姿勢は、実存的な研究方法論の極北といえるのかもしれない。

学問的普遍性をどう求めるかについての方法論は、他の論考にも参照すべきところが多いのだが、紙数の関係もあるので、最後に戦前も戦後も「日本仏教」の特質として持ち出される「本覚思想」研究についてふれておきたい。

戦前の「皇道仏教」の語りを「戦後歴史学」が克服しようとするならば、実は「本覚思想」の解明こそが必要だったのではないだろうか。論者の花野が「島地も宇井も、インド以来の仏教教理の究極的な展開を日本仏教に見る視点はまったく同じである。しかも両氏がともに、日本仏教の特質を「事で事を解釈」する、「専門的には本覚思想と称するもの」に見ていたことは注目に値する」と述べているが、日本仏教の一貫性や卓越性は本覚思想を応用することで論じられていた。また、天皇を本仏とするような皇道仏教も、本地垂迹思想や本覚門的思考によって説明がなされ、本覚思想の曼荼羅的解釈は天皇の御稜威や万民への光被を可能にする思想としても使われたのである。しかし、本覚思想の研究と検討は批判仏教との論議を交えながら進行中でもあり、今後に語られる「日本仏教」の形を定める大きな要素になることは間違いない。

以上、幾つかの共通する項目についてふれてみたが、鎌倉新仏教や葬式仏教の問題など言及したいテーマはまことに多い、また視点を変えることによって一五の論考から得られる発見は、実に豊かなものになっていくだろう。それだけの資源が、本書には埋蔵されていると思う。少し不満をいえば、戦後の歴史学者で世界史と日蓮を論じた上原專祿を採り上げてあっても良かったのではないか。「日蓮―世界史」を往還的に論じながら、死者・生者の実存的日蓮理解に入っていった上原を入れることで、「戦後歴史学」における近代化論や民族主義などの見方も広げて論じることができたのではないだろうか。

ともあれ、この『戦後歴史学と日本仏教』一冊が放射する領域は広く、示唆する課題も多い。各研究者の関連書籍を渉猟して繋げていくならば、必ずや新たな仏教史学のステージが見えてくるのではないかと思う。本書は、そんな風に読者の意欲を刺激して希望を引き出してくれる一冊である。

西山茂著『近現代日本の法華運動』(二〇一六年七月二〇日刊行) (発行/春秋社)

本書は、西山茂先生が宗教学者としてもっとも力を入れてきた分野である「日蓮主義と法華系在家教団」について、四〇数年間にわたり発表してきた研究論考を、初めて単著としてまとめたものである。この「近現代の法華運動」という研究分野は、西山先生が独自の視座をもって他の追随を許さずに開拓していった領域でもある。
本書の帯に「明治から戦前までの日蓮主義運動の「顕密性」と、主要な法華系在家教団の「内棲宗教性」を克明に描き出すとともに、内棲宗教の自立化についても詳論した画期的な書」とあるのが、まさしく本書の内容を要約しているといえよう。日蓮主義運動の「顕密性」も、また「内棲宗教性」という言葉も、西山茂先生独自の分析的視座であり、独創である。
本書は、十四の論考を五つのテーマに分けて、十四章としている。その全容を俯瞰するために、主要な目次をあげておこう。
Ⅰ日蓮主義と近代天皇制
第一章  近代天皇制と日蓮主義の構造連関―国体をめぐる「顕密」変動
第二章  「賢王」信仰の系譜―国柱会信仰から東亜連盟運動へ
第三章  石原莞爾の日蓮主義
Ⅱ法華系在家教団の成立と変容
第四章  仏立開導・長松清風の周辺体験と思想形成―在家主義の誕生
第五章  本門仏立講の成立と展開
Ⅲ法華系在家教団の展開
第六章  仏教感化救済会の創立者・杉山辰子とその教団―法華系新宗教史研究の「失われた環」の発見
第七章  法音寺開山・鈴木修学とその教団―内棲型「実行の宗教」の軌跡
第八章  戦後における立正佼成会と創価学会の「立正安国」
Ⅳ正当化の危機と内棲教団の自立化
第九章  戦後創価学会運動における「本門戒壇」論の変遷―政治的宗教運動と社会統制
第十章  正当化の危機と教学革新―「正本堂」完成以後の石山教学の場合
第十一章  内棲教団の自立化と宗教様式の革新―「正本堂」完成以後の創価学会の場合
第十二章  冨士大石寺顕正会の誕生―一少数派講中の分派過程
Ⅴ日蓮仏教と法華系新宗教の特徴
第十三章  法華系新宗教への日蓮仏教の影響
第十四章  日蓮仏教と法華系新宗教の現証起信論実はこの目次に沿った内容の紹介は、本書の「はしがき」において西山先生自らが解題のかたちで過不足なくまとめられている。私が下手な要約や解説をする必要もなく、それを読んでもらったほうがはるかに分かりやすい。そればかりか「はしがき」には「本書を貫いている筆者の視点」についても自ら分析・抽出して、七点にわたり各章に共通する視点が提示されている。この共通の視点とは、とりもなおさず西山先生に固有な研究的視座であり、西山宗教社会学の特徴といって良いだろう。ではその特徴とは何か、要約してその概要を見ていこう。
(本書を貫く共通の視点について)
第一は、各章が「運動」の視点から書かれている。
第二は、調査と資料に基づく「文献実証主義」の方法が取られている。
第三は、各章が実証的な資料に基づきながら「構想力」によって導かれている。
第四は、各章の運動や教団が、どれも「既成宗団と在家教団ないし在家運動の双方に関与」している。
第五は、「内棲宗教性のある教団」が取り上げられている(既成宗団と在家教団の「あいだ」に着目)。
第六は、正当化の危機に晒されやすい「周辺性のもつ思想形成力や教学革新力」への着目。
第七は、「周辺の創造性(理念)」は「正当化の危機(利害状況)」に置かれて発揮されるという視点。
 こうした共通の視点を並べて見てみると、あらためて実践的な宗教社会学者・西山先生その人がこの中から現れてくるように感じる。この七つの視点から見えてくる特徴とは、厳密な「文献実証主義」に基づきながらも、「運動」に着目しての動的な「構想力」によって、中心(既成宗団性=伝統)と周辺(在家教団性=革新)の「あいだ」に生起する事態や思想性の変遷を明らかにしていく研究姿勢である、とまとめることが出来るだろう。こうした構想力をもった西山先生の研究姿勢は、先生が信仰を持った研究者であることから来ているのではないだろうか。本書の「あとがき」では、自らの研究姿勢と宗教観にふれて、次のように述べている。
  「私の専門は実証的な宗教社会学であるが、そもそも、その根底には、青年期からの「生き方としての
宗教」への熱い関心があった。いかなる研究者であろうとも、一人の丸ごとの人間に戻ったとき、その根底に価値絡みの世界観を何ももたないということは、まずありえない。それが研究者の根底にあればこそ、マックス・ウェーバーは「価値自由」ということをいったのではあるまいか。
ところで、「生き方としての宗教」に私(当時は高校生)の目をはじめて向けさせてくれた人は、無教会主義の提唱者の内村鑑三であった。ちなみに、欧米の教派や聖職制度に疑問を抱いて二つのJ(イエスと日本)をこよなく愛した内村の思想は、在家主義と社会指向性(日蓮と日本という二つの日を愛する日蓮仏教)を特徴とする「近現代日本の法華運動」(本書のタイトル)にも通ずるものがある。」
 内村鑑三と田中智学は、同じ万延二年(一八六一)生まれで、九ヶ月違いの同年である。西山先生が同年のこの二人に信仰的にも魅了されたのは、基督教と仏教という違いこそあれ、共に日本宗教界における近代化の開拓者であり、共に在家主義で「生き方としての宗教」を提唱したからだと思う。この二人の影響は、西山先生が平成十七年より日蓮仏教の再歴史化を期して主宰した「本化ネットワーク研究会」の実践において、一つとなる。「あとがき」には、「今から見れば、それは、門流や会派を超えたひとりの法華系の無教会主義者の誕生を意味していたのであり、それは「生き方としての宗教」への私の回帰でもあった。」とあり、「法華系無教会主義者」として二人の影響が統合されたことを述べられている。それはまた、西山先生にとって、実証的な宗教社会学者としての立場と、自らの宗教的立場との統合でもあった、と思う。つまり「日蓮主義の再歴史化」という課題は、そうした「生き方としての宗教」を実践化する宗教社会学のあり方を生み出したといえるのではないだろうか。
以上、「筆者の視点」に沿ってその研究姿勢にふれてきたが、本書の内容に戻っていえば、各章(十四の論文)は厳密で実証的な社会学者としての立場から書かれたものばかりである。簡単にふれておきたい。
「Ⅰ 日蓮主義と近代天皇制」には三つの論文が収められ、顕密変動でみた日蓮主義や天皇を救世主とした賢王信仰についてなど、日蓮主義の再歴史化を考えるためには必読の論考群となる。「Ⅱ法華系在家教団の成立と変容」では、本門仏立講の長松清風の周辺体験から内棲宗教の成立と展開が詳しく論じられている。「Ⅲ法華系在家教団の展開」では、法音寺教団について創立者から日蓮宗に内棲化したまでの経緯が述べられ、また戦後の「立正安国」運動として創価学会と立正佼成会のケースが取り上げられている。「Ⅳ正当化の危機と内棲教団の自立化」は四つの論文だが、大学院生時代に創価学会の「本門戒壇論」について書かれた論考をはじめとして、内棲宗教であった創価学会の自立過程が克明に辿られると共に、その過程における日蓮正宗僧侶の「正信覚醒運動」また在勤教師会(興風談所)の教学革新についても詳述し、また妙信講(顕正会)も取り上げて、日蓮正宗大石寺をめぐる戦後の全過程を伺える突出した論考群となっている。「Ⅴ日蓮仏教と法華系新宗教の特徴」では、日蓮仏教が法華系新宗教に与えた影響について、また法華系の現証利益について「自利利他連結転換装置」の新概念による新たな分析と研究が試みられている。
いずれの論考(各章)においても、宗教社会学的な分析の視座が定められての検証と論述が行われており、あらためて実証主義による学術研究のレベルの高さを感じさせられた。とはいえ、専門家でなくとも読みやすく、一般から研究者まで法華系新宗教教団の近現代の歴史を知るためには、必読の一冊である。

『シリーズ日蓮』から「法華コモンズ」へ ―日蓮仏教を学び行う新たな試み―

法華コモンズ仏教学林事務局長 澁澤光紀

1、はじめに

この度は興統法縁様の第三八回総会にお招き頂きまして有難うございます。ご紹介頂きました法華コモンズ仏教学林事務局長の澁澤光紀と申します。本日は、講題にもありますように、日蓮仏教を学ぶ新たな試みとして本年(平成二八年)四月に立ち上げた「法華コモンズ」の話をさせて頂きます。

皆さまご周知の通り、日蓮教団は日蓮聖人の滅後において分派を繰り返して、各門流・宗派ごとの宗学や宗史の研究が積み重ねられてきました。その流れは近現代にも及んで、新旧を問わず日蓮教団の研究者が宗派の垣根を越えて日蓮研究に打ち込む共同の場はなかなか成立することがありませんでした。

しかし、近年において宗派の枠を超えて日蓮仏教を論じ合ってその現代化を図りたいという動きが高まり、幾つかのグループが作られて行きました。その中で、日蓮思想の現代思想化をめざす「福神研究所」(一九九一年設立)、日蓮主義の再歴史化をめざす「本化ネットワーク研究会」(二〇〇五年設立)、自由で開放的な日蓮研究の場作りをめざす「法華仏教研究会」(二〇〇九年設立)の三者が共同して取り組んだのが、出版企画『シリーズ日蓮』でした。この出版企画は、国内外から七〇余名の執筆者を揃えて、宗門の枠を越え教団の歴史と教義の全貌を明らかにしつつ、未来に向けての日蓮思想の現代化を提示していこうという画期的な試みで、また各巻ごとのテーマで全五回の講演会も行いました。『シリーズ日蓮』は平成二七年に完結しますが、その成果を糧にすることで本年四月より法華経と日蓮思想を学び実践するため日蓮門下が集う共有地(コモンズ)として、「法華コモンズ仏教学林(以下、法華コモンズ)」をスタートさせることができました。

今回、「法華コモンズ」へ到った経緯を説明するにあたり、「宗派を越えて」という理念の淵源として山川智応『聖祖門下各教団合同の根本的可能性を論ず』(昭和16年)を取り上げます。また近年の宗派を越えた教学的試みとして「法華思想懇話会」にも触れながら、法華コモンズ設立の基となった「本化ネットワーク研究会」と『シリーズ日蓮』の活動を辿っていきます。最後に法華コモンズ仏教学林が担うべき今後の課題について、問題提起のかたちで触れていければと思います。

 

2「門下合同」時における統一への願い

昭和一六年、伝統仏教教団は国家総力戦体制下での「宗教団体法」(昭和一五年施行)に基いて、それまでの十三宗五十六派が合同されて二十八派となります。日蓮系ではそれまでの九教団が、やがて大合同することを前提に先ず可能な教団が合同して、昭和一六年三月三一日には次の四教団となります。

〇日蓮宗+顕本法華宗+本門宗→日蓮宗

〇法華宗+本門法華宗+本妙法華宗→法華宗

〇日蓮宗不受不施派+日蓮宗不受不施講門派→本化正宗

〇日蓮正宗→日蓮正宗

この合同は総力戦に向かう国策の一環として行われたのですが、それ以前に本多日生が主導して大正時代に盛り上がった「門下統合・統一」運動の下地があって、期せずして門下統一の理念を実現化したものとなりました。

山川智応は『聖祖門下各教団合同の根本的可能性を論ず』(昭和一六年七月一六日付)において、この合同について「この一大合同還帰は、御門下六百数十年来の、最も霊なる聖事業であることは、是れまた疑ひのないところ」であり、「祖廟を中心として各教団が、一大聖祖に還元帰入せられんことを勧進して息まない」と絶賛しました。その中で山川は本門宗・顕本法華宗・日蓮宗の合同について、次のように述べています。

「聖人門下における事実分派のはじめは、富士日興上人が聖滅七年に身延を去られたのに創まる。そして上人の開創に成る寺は、今の日蓮正宗の本山となってゐる大石寺と、今度日蓮宗に合一してその本山となつたる、本門宗の北山本門寺(重須本門寺)があるが、~略~興師門下北山本門寺等の七本山を含む本門宗は、本勝迹劣を主張する最初の派なるに拘らず、今度祖廟中心の下に日蓮宗に合一した。~略~興師についでの分派の師は、顕本法華宗の日什師であって、~略~今や管長井村日咸師の英断で、時局に感じ、また祖廟中心の下に日蓮宗の中に合一せられた。」

山川は続けて法華宗の三派合同、不受不施の合同、日蓮正宗の不合同にも触れてから「九教団が日蓮聖人の一つの教団への還元ができなかったのは、時局観と法義尊重観と実践観との間に、おのおの所見の相違があった為」だが、しかしその相違は合同を不可能にするような絶対的なものではない、と述べます。また、典型的な教義上の相違として「本尊問題」にもふれて、日蓮聖人の宗教の本尊は、仏(人本尊)か、法(法本尊)か、あるいは僧(末法の日蓮本仏)かという違いに関して、御遺文に根拠があるものならば「決して帰一しないわけはない」と断言しています。

そして、「苟も聖祖門下たるかぎり、今の四宗をば唯一宗にする運動が、宜しく続けられねばならないとおもふのである。~略~合同宗門においては、必ず『宗義高等審議所』を設くることの前提の下に、祖廟を中心としての各教団が、一大聖祖に還元帰入せられんことを勧進して息まないものである」と、その帰一への熱情を吐露しています。

私は、こうした日蓮教団の分裂を憂いて「一大聖祖に還元帰入」を念願する山川智応の熱情こそ、現在の日蓮門下が共有すべき想いであり、法華コモンズに繋がる源流であると感じています。

 

3、日蓮系教団との宗派をこえた交流

―「法華思想懇話会」と

「本化ネットワーク研究会」の試み―

敗戦後は、宗教団体法の廃止により戦時の合同が解かれますが、日蓮宗は宗教法人法の下で再び三派合同をしています。その後の日蓮門下統一の動きとして、昭和三五年に「日蓮聖人門下連合会」が出来ますが、立正佼成会や創価学会など法華系新宗教の台頭もあり、伝統教団と新興教団の対立が激化することで統一への道は遠ざかりました。また、祖廟を中心として結集した日蓮聖人門下連合会においても、教義的な論議は避けて懇親と合同行事を主な活動としたので、教学的に聖祖に帰一するための研鑽は行われませんでした。

そうした状況の中で、宗派の対立を越えて日蓮聖人に帰一するための試みは、小さなグループ活動として現れてきました。その一つが「法華思想懇話会」でした。

西山茂氏が「門流をこえた法華仏教のネットワーク運動」(春秋社刊『シリーズ日蓮』四巻三二四頁)に次のように書いています。

「天台宗や法華系新宗教を含む法華仏教の対話のネットワーキングを試みたものとして、法華思想懇話会(中央学術研究所の梅津礼司(当時)が主唱、教団・教団系研究所間対話が中心、1993年に活動を開始して1999年頃に休会)があったが、現在は会の運営をめぐる教団間の意見対立のために活動を休止している。」

この「教団の意見対立のため」というのは、平成八年(一九九六)に同会が創価大学内の東洋哲学研究所を会場として開かれるに際して、その当番となった日蓮宗の世話人二人が案内状に宗内の公職名を書いていたことを宗内で咎められ、両名が世話人役を降りたという問題です。この日蓮宗内での反発には、敵対する創価学会が参加する会の世話人を、宗門の公職に就く者が行うのは以ての外という批判や、法華思想懇話会に参加することは創価学会の懐柔策に取り込まれることだ、といった警戒心もあったと思います。会の活性化を担ってきた中堅の両師の脱落は大きく、その後に休会に至った最大の原因となりました。

この会には直接は関わっていなかった西山茂氏ですが、自らが定義した「日蓮主義の再歴史化(現代化)」という課題のために、同様な宗派横断的な研究と集いの場を欲していたこともあって、この事態の反省をふまえた上で、教団単位ではなく個人レベルで運営・参加する研究会を構想していきます。

西山氏が「日蓮主義の再歴史化のための研究会」をいつから考え始めていたかといえば、雑誌『福神』の創刊号(平成一一年・一九九九年刊)での論考「田中智学と日蓮主義を再考する」になるでしょう。その中で西山氏は、日蓮主義の歴史化、脱歴史化、再歴史化の理念を提示し、「本化宗徒が主体的に~略~一定の「構想力」のもとに、日蓮主義の「脱歴史化」と「再歴史化」に真剣に取り組めば、必ずや活路が拓ける」と述べています。

そして、その三年後の平成一四年に西山氏にインタビューした記事「再歴史化する日蓮仏教」(『福神』第九号)で、本化仏教による仏国土成就のための研究会を設立したいと表明、平成一六年秋より本化ネットワーク研究会(以下、本ネ研)構想のための準備会をへて、翌年一月から東洋大学の会議室において、本ネ研の月例勉強会が始まります。

その第一回目は「日蓮聖人の折伏観について」(講師・山上弘道氏)で、以後も例会は月に一回(七~八月は休み)のペースで開催され、平成二七年九月の第百回記念講義「非情成仏のエコ・フィロソフィ」(講師・竹村牧男氏)まで一一年間続けられます。その間には年に一度の夏季セミナ―(二日間開催)も一一回開かれました。

同会の月例勉強会のテーマの選び方は、「理論的テーマ」と「実践的テーマ」を月毎に入れ替えて行うことを原則にして、様々な課題を取り上げましたが、夏季セミナ―でのテーマ設定に同会の性格がよく出てますので、次に一覧します。

(夏季セミナーのテーマ)

平成一七年 第一回「近現代における本門戒壇思想の展開」

平成一八年 第二回「常不軽国家日本の建設」

平成一九年 第三回「不軽菩薩と憲法9条」

平成二〇年 第四回「本化社会仏教という構想力」

平成二一年 第五回「立正安国の再歴史化」

平成二二年 第六回「四箇格言の再歴史化―宗祖の破邪を踏まえて―」

平成二三年 第七回「「九識説」とは何か―その起源・展開と現況―」

平成二四年 第八回「現代の担転共業―われわれの使命とは何か―」

平成二五年 第九回「本化仏教における戒壇思想の展開-授戒壇と成仏国土」

平成二六年 第一〇回「日蓮仏教の近現代ーその展開と課題」

平成二七年 第一一回「同一苦」担転の教学と実践―オキナワとフクシマへの回向-

『シリーズ日蓮』という出版企画は、こうした本ネ研の「学びの場」に宗派を越えて集って来た人々と団体によって、立ち上がって来たのです。

 

4、「『シリーズ日蓮』刊行会」の設立とその活動の歴史

『シリーズ日蓮』の活動は、「福神研究所」(所長・上杉清文)、「本化ネットワーク研究会」(主宰・西山茂)、「法華仏教研究会」(代表・花野充道)という三つの団体と、法華宗陣門流の後援によって動きはじめました。

出版企画の発端は、法華仏教研究会の花野氏が「全日蓮教団大辞典」の出版企画を福神研に相談、一緒に大蔵出版の編集者と会った事によります。編集者から「辞典は費用と時間がかかりすぎる」と断られて、この企画を断念した花野氏に、「講座日蓮のように論文を集めた単行本シリーズならば出来るでしょう」と上杉氏が提案した事から始まります。

その後、西山氏や陣門流宗務総長の佐古氏に相談して企画案を練り上げ、責任編集者として小松邦彰氏ならびに末木文美士氏を引き入れて、春秋社とも打合せて了解を得て、平成二二年一二月に第一回編集者会議を開催、実現に向けてのスタートを切ったのです。責任編集者は五名で、以下の巻を担当しました。

第一巻「法華経と日蓮」小松邦彰+花野充道

第二巻「日蓮の思想とその展開」小松邦彰+花野充道

第三巻「日蓮教団の成立と展開」小松邦彰+花野充道

第四巻「近現代の法華運動と在家教団」西山 茂

第五巻「現代世界と日蓮」上杉清文+末木文美士

その後、二三年三月の東日本大地震で作業は一時停滞しましたが、同年八月には計画をまとめて、出版費用を賄うために「『シリーズ日蓮』刊行会」を立ち上げ、広く日蓮門下に勧募金をお願いしました。翌二四年には勧募金も目標に達し、編集作業も本格化して、予定通り二六年より第一巻が発刊し、二七年の第五巻発刊をもって完結します。

その間には各巻の発刊ごとにその内容を検討する「講演会」を開催するなど、『シリーズ日蓮』の発刊には幾つかの特筆すべき点がありますが、画期的な事は次の二点でしょう。

一つは、刊行会の発起人として伝統・新興を問わずに門下全体から賛同を頂けたことです。これは門下連合の賛同を得たことも大きかったと思います。もう一つは、これまで日蓮研究全般にわたる出版としては立正大学中心の編集が通例でしたが、今回は通例とは別の五人の責任編集者が担当したことで、宗派を越えての企画となり得たことです。これはまた、日蓮研究の裾野が広がったという事でもありました。

そして『シリーズ日蓮』終了後、この刊行会の中心メンバーが運営スタッフとなって、法華コモンズ仏教学林がスタートするのです。

 

5、法華コモンズ仏教学林の開校とその課題について

西山茂氏が初めて「法華コモンズ」構想について語るのは、平成二四年の第八回夏季セミナーでの講義「本化学術コモンズの可能性―対抗から連携へ―」になります。コモンズとは共有地のことで、日蓮門下のコモンズ(共有地)を作ろうという提案でした。実現に向けて動き始めるのは、『シリーズ日蓮』第四巻の講演会と重ねて開催された第一〇回夏季セミナーが終了した平成二六年一〇月からです。当初の《私案》では、設置の目的として次の三点が挙げられていました。

①田中智学と山川智応が目標としていた「本化大学」の実現

②本多日生が唱えた「(門流)統一」の実現

③本化ネットワーク研究会の永続策として

しかし《私案》の①は、本格的な大学レベルの構想であったため実現が難しく、最終的に本化大学を目指すとしても今は可能な運営方法を選び、本化寺院に会場を借りて幾つかの講座をカルチャーセンターのように開設することになりました。そして二八年四月の開講を目指して、「法華コモンズ仏教学林」の活動が始まります。

本ネ研は、平成二七年九月に月例勉強会を第百回で閉じた後、試行期間として一〇月から翌年三月まで六回にわたり開かれたプレ講座「天台本覚思想史」(講師・花野充道氏)の運営を最後に法華コモンズに合流して、一一年間にわたる活動の幕を閉じました。

こうして準備された「法華コモンズ仏教学林」ですが、新宿常円寺様を会場にお借りして平成二八年四月より、五つの連続講座と一日集中講義を用意しスタートを切りました。二八年度に開講した講座は次の通りです。

《法華コモンズ講座(二八年度前期)》

(一日集中講義)

○現代における仏教倫理の可能性」末木文美士先生 五月二八日開講

(連続講座)

○「インドの『法華経』を読む」苅谷定彦先生 四月~九月(六回)

○「日蓮教学史と諸問題」布施義高 先生 四月~翌年三月(一二回)

〇「日蓮教学と中古天台教学の検討」花野充道先生 四月~翌年三月(一二回)

〇「『法華玄義』講義」菅野博史先生 四月~平成三〇年三月(二四回)

〇「日蓮聖人教学の基礎」庵谷行亨先生 四月~九月(六回)

《後期の講座として追加する講座》

(一日集中講義)

〇特別講座「近代仏教研究の最前線」大谷栄一・近藤俊太郎・碧海寿広の各先生 一〇月二六日開講

(連続講座)

〇「日蓮聖人遺文研究」都守基一先生 一〇月~翌三月(六回)

〇「初期仏教研究―仏滅年代論・経典の成立―」池上要靖先生 一〇月~翌三月(六回)

講座の受講は、原則は一期六回ですが当日受講も可能で、学割もあります。運営的には、講師の講義料をボランティア並に安く抑えることで、一講座に一五名の受講者がいれば赤字にはなりません。とはいえ、やがて教材備品の購入や設備投資などの必要も出てきますので、今は二年間の試行期間ですが、将来的にはNPO法人化して寄付金を募る事もして、本化宗徒が宗派を越えて研鑽する学校に発展させていく予定です。

最後に、私の個人的な考えになりますが、法華コモンズの今後の課題として三つほど挙げてみます。

一つは、法華コモンズで「日蓮主義の再歴史化」という課題を、どのように解決していくかということです。日蓮主義の再歴史化ということが、現代における近代日蓮主義の克服と蘇生である以上は、戦後の天皇制のあり方も含めて、日蓮思想における天皇問題の再検討を徹底して行わなければ、再歴史化が実現することはありえないと考えています。

二つは、法華コモンズをいかに行学二道(理論と実践)の場にしていくのかという課題です。法華コモンズは理論と実践を重視した本ネ研の理念を引き継いで、教学的には活発な議論による研究の深化をめざし、実践的には現代の諸問題に日蓮思想を活かしていくという、行学二道による研鑽の場をめざしています。今後どのように講座の中に実践的なテーマを増やしていくのか、おおきな検討課題となっています。

三つ目は、コモンズ(共有地)という名の通り、宗派や門流教学の垣根を超えて、門下一同の論議と交流の場となっていくことです。法華コモンズがプラットホームとなって宗派・僧俗を越えた交流をはかりながら、多様な要素をネットワーキングしていくことで、現代的なスタイルでの全日蓮門下による聖祖への帰一と合同を果たしていく、これが最も大きく困難な課題かと思います。

まだはじまったばかりの法華コモンズの活動は小さく非力ですが、皆さまのご理解とご参加を得ることで育てて頂き、やがて「聖祖への帰一」という大きな課題解決への一助となれますことを念願しまして、本日の話を終わらせて頂きます。ご清聴まことに有難うございました。

書評『死者と霊性——近代を問い直す』末木文美士編(岩波新書1891)

本書は、副題にある通り「近代を問い直す」ために、近代が葬り去ってきた「死者と霊性」という前近代的概念を復活させて、それを最もヴィヴィッドなキーワードとして「近代以後」の世界を見わたそうとする野心的な試みをテーマとした、5人の論客による座談会(シンポジウム)と論考の記録である。

このシンポジウムの発題者で司会を務める末木文美士氏は、本書のはじめで「近代という宴の後で」という題での提言をしている。そこで末木氏が指摘しているのは、「近代」を決定的に終わらせて次に追い込んだコロナ禍の時代的意味である。末木氏は、「一九八〇年代で近代は終わり、九〇年代以後は終わった近代の後で、新しい方向を見いだせないままの混乱と停滞が続く時代」だったとしている。しかし、その過渡的状況をコロナ禍が終わらせてしまったのだという。

近代が終わったというが、その近代とは何かといえば「「人類は合理的思考によって進歩し、それによって万人の幸福度が増加する方向へ向かうという楽観論が共通の前提になっていた時代」と末木氏は定義する。つまり、科学万能の合理主義によって進歩的な人類の理想が追求できた理想の時代は、すでに30年前には終わっていて、「理想」よりは「覇権」のエゴイズムが許容される風潮に入っていた。それがコロナ禍という全世界的自然災害によって近代的価値観は決定的に揺るがせられて、我々はそれに代わる世界観も見出せないままに、近代の終焉という危機を迎えている、というのだ。人類の存亡自体が問題となる危機の中で、理念なき覇権主義の暴走は絶対にあってはならない、そのためにはどうするのか、「近代」に替わる「現代」の思想と理念とは一体何なのか。本書に登場する末木文美士氏、若松英輔氏、中島隆博氏、安藤礼二氏、中島岳志氏の5人は、この近代以後を作り出す大課題に対して、座談会「死者と霊性」における緊密な集団的思考によって、また個々の論考によって、その解答を出すべく全力で語り合っている。

本書の目次を紹介しておこう。座談会各部の中見出しは、煩雑のため省略する。

 

《提 言》近代という宴の後で    末木文美士

《座談会》死者と霊性  末木文美士(司会)・中島隆博・若松英輔・安藤礼二・中島岳志

第Ⅰ部、第Ⅱ部、第Ⅲ部

《論考》○死者のビオス                   中島岳志

○死者と霊性の哲学―西田幾多郎における叡知的源流  若松英輔

○地上的普遍性—鈴木大拙、近角常観、宮沢賢治    中嶋隆博

○「霊性」の革命                  安藤礼二

 

あとがきによると、このメンバーは二一〇六年頃より研究会をもって議論し続けてきたとのことで、座談会での問題共有にブレや誤解がなく、驚くほど息の合った意見のやり取りが出来ているのは、そのお陰だろう。各論考も短いながら実に濃い内容となっており、座談会で語られなかった「死者と霊性」というテーマをそれぞれ多面的に見事に補強している。

もう五〇年以上も前になるが、上原專祿は「生者エゴイズムという近代の悪潮流」にたいして実存する死者を対置して、「死者との共存・共生・共闘」を宣揚した。この上原の思想は今こそ忌避されることなく理解されるものとなった。

人間とは「死者・生者」で人間なのであって、近代とは生者のみにスポットを当てた「陽」の思想だったのかもしれない。実際は、陽を支えた影となって陰があった。アウシュヴィッツは、近代合理主義の極北だったといわれる所以もそこにあるのかもしれない。いま陽が極まり陰になる時、われわれ陰陽のバランスを慎重にとりながら、近代以後の世界像を構想していかなければならないのではないか。

本書は、まずはすべての僧侶が読むべき本であると勧めたいが、今を解決する答えが書かれているわけではない。この近代以後という混迷の中で、なによりこの「死者と霊性」という課題を自らのものとして、未来において活かすための参考書として実践的に読むのがふさわしい本だといえよう。

(澁澤光紀)