菅野博史先生の「『法華経』『法華文句』講義」令和8年度後期第1回(通算101回)は、会場の都合により1週早い10月19日(月)午後6時半より開講されました。テキスト『文句(Ⅲ)』880頁7行目から、化城喩品「化城宝処の譬」の随文釈義を読み進めました。

今回の箇所は、導師に率いられた人々が道の途中で疲れ果て「もう帰りたい」と申し出る場面から、導師が幻の城を作って人々を入らせる場面までです。『法華文句』はこれを「将導譬」と名づけ、火宅の譬や方便品と一句ずつ対応させながら細かく段落分け(科文)していきます。先生はまず、科文とは経文の段落分けであり、お経の隅々にある仏の救済の意図を明らかにしようとする中国注釈書の中心的な作業であることを確認されました。

「中路懈退」は、大乗から退くこと(退大=仏が一乗を説くことを止めることに当たる)と、小乗で受け止めること(接小=三乗を施すことに当たる)の二段に分かれます。「中路」は道半ばの意ではなく、発心を始め、成仏を終わりとする二つの柱の間で退く心を起こすことをいう――この解釈をめぐって、「機」とは仏の救済を呼び起こす衆生側の働きであり、衆生の機が感じ仏が応ずる「感応」の構造が中国仏教の救済論の核心であること、「発心」は「発菩提心(悟りを求める心を生ずる)」の略であることなどが語られました。

「白導師言」の釈では、導師に慈悲の導師・結縁の導師・権智の導師・実智の導師の四種が見出されます。ここで先生は、救いたいという慈悲だけでは方便の工夫は生まれず、智慧と慈悲が相まって初めて方便を講ずることができるのであって、法華経の「方便品」は「三乗は低い教え」という意味の品名ではなく、衆生を救うために方便を講ずるブッダの力を称えた品名である、と強調されました。あわせて「方便」が upāya の訳語として作られた熟語であること、『正法華経』では「善権品」とされること、権智・実智の枠組みが光宅寺法雲以来の中国仏教の解釈であることが紹介されました。

後半は、接小の四段(擬宜・傷其失宝・化作城・入城)、化城を説く三句を四諦の三転(勧転・示転・証転)に配当する解釈、「前至宝所亦可得去」をめぐる他説(別教・別接通)と、「今仏がまだ開権顕実しない以前にこの言葉はありえないが、宿世の十六王子の教化としてならありうる」という智顗の判定を読みました。別接通の説明のために、四教・三諦・次第三観と一心三観・三被接が丁寧に復習されました。最後に、化城に入った人々の喜びの句を聞慧・煖・頂・忍・見道・無学の階位に配当する箇所について、「未曾有」が仏教語として良い意味でしか使われないこと、「無学」が「無所学」の略で阿羅漢を指すことに触れつつ、一句ごとに修行の位を当てはめる読み方には形式主義の面もあり、ほどほどに受け止めてよい、との見方を示されました。

次回は11月30日(月)、『文句』886頁1行目から読み進めます。化城を滅して宝所へ導く譬(滅化引至宝所譬)に入り、宝所の二義や「車と城」をめぐる問答、五箇所の開三顕一の違いなど、化城喩品の釈の山場にあたる箇所です。多くの方のご参加をお待ちしております。(担当スタッ

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