菅野博史先生「『法華経』『法華文句』講義」(通算91回目)が、12月15日(月)午後6時半より、開講されました。
今回の講義範囲は、テキスト『法華文句(Ⅲ)』の814頁13行目の「「如彼大雲」の下は~」から、819頁終わりの5行目「四に一法に約して能く知る」までです。経文の範囲は、「彼の大雲の一切の卉木・叢林、及び諸の薬草に雨るに~」から、「何なる法を以て思い、何なる法を以て修し」までになります。
今回の経文の内容は前回の続きで、分け隔てない平等な如来の大慈悲を「大雲」に喩え、その同じ一つの説法を「降る雨」として、その教え(潤い)を受ける衆生(草木)達は、おのおのの分斉(大中小など)にしたがって成長することが述べられています。特に強調されるのは、如来は「法を説くに、一相一味なり」で、「法」を聴く衆生は「その種性の如く~潤いを蒙り、各成長する」のであって、一つの「法」を各々の「種相体性」の違いによって別々に理解して悟りに近づく、という点です。
『文句』の解釈では、科目として「無差別譬を合す」「一味を釈す」「草木差別を合す」「差別を合す」などが立てられて、「如来」は「一相一味」「一地一有」の無差別の実相(真実)だが、草木等の「衆生」は差別の権相(方便)であると対比して、無差別・差別論を展開していきます。そして「差別は即ち無差別、無差別は即ち差別なることを、如来はまた能く知る」と論じていきます。
実は、批判仏教を呈示した松本史朗氏は、仏教の縁起説に対立するインドの土着思想由来の基体説という仮説を、この薬草喩品から構想した、と『法華経思想論』(大蔵出版)で明かしています(同書596頁)。基体説とは、唯一の実在で単一の基体(界)から様々な超基体(法=現象)が生じるとする思想で、薬草喩品でいえば「如来の一相一味、一地一有」が単一の基体で、「大中小の草木や衆生」が基体から生じた多なる超基体になります。これに対して仏教の縁起説は無基体論で、現象する時間的な連続性が縁起としてあるだけで、基体―超基体、真実―方便、実—権、本―迹のような構造があるのではないとみます。『文句』の解釈は、基体説に沿った見方で、草木の違いなどの現象的な差別は、その基体である如来の一味に帰して、差別=無差別の「無差別」になります。
薬草喩品では、一味の雨を受けて多様な草木がおのおのに成長する喩えを、如来の平等の証であり差別の解消としているのですが、松本氏は、一味の雨で大小の草木が等しく成長するといっても、「大小の差別が解消されるわけではない」「大・小乗の差別を許容し、さらには肯定するもの」そして「五性各別説を指向するもの」と述べて批判しています。
菅野先生も講義の中で、この松本先生の「薬草喩は基体論で差別思想」とする批判仏教の見解にふれられましたが、あくまで一つの見方として紹介して、天台の解釈が一般的であるとしました。
ここで考えておきたいのが、釈尊の説法とは「対機説法」だったということです。薬草喩品の如来の説法は単一であり、衆生が各々の機根にしたがって理解して悟りへの糧とします。しかし対機説法は、聴く機根に合せて如来が様々に説法することですから、全く逆で単一ではありえないわけです。つまり、対機説法とは「方便」で導く説法であり、単一な悟りへの真実は如来の密意としてあることになります。
そう考えると、薬草喩品で説かれた如来の単一の言葉が、それぞれの機根や種姓にしたがって別々に理解されながらも、同じ悟りの道へと進ませた(成長させた)ということがありうるのかどうか。この疑問点は、また菅野先生にご教示を受けながら学んでいこうと思います。
次回は新春1月26日からのスタートです。テキスト『文句(Ⅲ)』822頁1行目から始まります。薬草喩Ă品はまだまだ続きます。随文釈義の面白さを味わいながら、共に理解を深めて行きましょう。(担当スタッフ)

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