令和7年10月25日(土曜)15時30分~、2025年度後期【法華仏教講座】第1回講義が、常圓寺祖師堂地階ホールを会場として、オンライン同時配信のハイブリッド型で講義が執り行われた。
今回は、間宮啓壬先生を講師にお迎えし、「日蓮における「無始の古仏」考-無始とはいつのことか?」の講題でご高説を賜った。
間宮先生は、松本史朗氏の論攷(「『法華経』の文学性と時間性」)を手掛かりに、『観心本尊抄』の「無始の古仏」の語に着眼しながら、日蓮教学研究の中で種々に考究されてきた、本仏釈尊が「無始」か「有始」かいう問題について講じて下さった。
本論では、先ず、漢訳の法華経本文や梵本の説示、先行研究を吟味され、「法華経自体は、釈尊を無始の仏とは決して位置づけていない」ことを確認された。
次いで、日蓮遺文中の「無始」の用例を逐一検討された。そのことに由り、日蓮の場合、「私たちの認識能力ではもはや始点を確認できない程の、計り知れない遥か遠い過去」という暗喩表現として「無始」が用いられ、「無始」は時間の超越を意味しない、と検証された。
従って、「無始の古仏」の「無始」も、そうした暗喩としての「無始」と見られることを指摘された。
次いで、日蓮遺文中、「有始」と対比される場合の「無始」について、『一代五時鶏図』の「久成の三身」(三身ともに無始無終)に着目しながら考察を進められた。その際、松本史朗氏が高く評価された、慶林坊日隆師(1385〜1464)の「所謂有始にして常住本有なる形これあるべし、報身は能成の智、法身は所成の境なれば同体の境智にして境智共に実相なるべし、実相の境智は本有にして常住なり、(中略)境智不ニの智が境智不ニの法身に冥合して常住なるを久遠の報身とは云(後略)」(『私新抄』)を取り上げられ、報身の常住性が法身に根拠づけられていることに着目された所論を紹介された。この見方を承けて、間宮先生は(報身のみならず)応身の常住性も法身の常住性に基礎づけられると指摘され、「三身の基礎的性格を法身に見出し、その「無始無終」性を以て三身を統一したと考えられる」と論じられ、先行研究についても細かに批評を加えられた。
斯くして、(日蓮教学における)「本仏は過去「五百塵点劫(已前)」といわれる特定のある時に成道した仏であり、かかる「本時」にあって、本仏は諸仏を生み出す「本地」を確立した」と講義全体をまとめられた。
日蓮教学研究界全体に大きな刺激を与える、素晴らしい御講義であった。
日蓮遺文中の関連する説示をすべて丹念に調べ上げられ、その厳密な意味を検証される間宮先生の真摯な御姿勢に、心より敬意を表したい。
なお、今回のご講義の詳細は、近く論文として公表される予定である。(スタッフ)