Skip to main content

菅野博史先生「『法華経』『法華文句』講義」前期5回目(通算87回目)が、8月25日(月)午後6時半より常円寺祖師堂地階ホールにて開催されました。
今回の経文の範囲は、長行の話をまとめた偈文で、「長者智あって漸く入出せしめ、二十年を経て、家事を執作せしむ」から、「信解品」最後の「一乗の道に於いて、宜しきに随って三と説きたもう」までです。
その内容ですが、摩訶迦葉が声聞の悟りで満足していた自分たちを志しの低い窮子に譬えて、長者がその窮子の賤しい心根を全財産譲るにふさわしいまでに導いたように、釈尊は方便力をもって小を楽(ねが)う自分たち声聞の心を大乗に導いてくださった、と釈尊の大恩への感謝を述べて、釈尊は一乗の道を聴く者に合せ三と説く、と締め括ります。
『文句(Ⅲ)』の解釈は、783頁後ろから3行目からですが、経文の語句についての教学的見方が詳しい述べられ、あらためて経文の持つ意味が深堀されていることに驚きます。例えば「二十年を経て」ですが、この二十年は、①見惑・思惑の塵を払う期間、②般若経の空の教えを説く期間、あるいは③二乗の位に留まりながら大乗の教えを説く二十年、等と幾つもの解釈が挙げられています。
また、摩訶迦葉たち声聞が大菩薩の為に無上道を説くと述べた偈文がありますが、その解釈として「教を転じて他を益することを明かす。その時、教を転じて菩薩を教化すというも、我が為めと云わず」(『文句』786頁9行目)と「転教」という言葉が出てます。
菅野先生はこの「転教」について、「方向を転じて、二乗ではなく、菩薩に対して説くこと」と説明されましたが、摩訶迦葉たち声聞が「大菩薩の為に無上道を説き」ながら、説く本人が「我が為めと云わず」として、自らは無上道と縁がないと思っていたことにも、深い意味を感じました。
また経文の語句で今回目を開かされたのが、「方便力を以て、其の心を柔伏して」の「柔伏」です。折伏ならぬ柔伏は、明らかに摂受の布教法ではないでしょうか。また「取相の凡夫に、宜しきに随って為に説きたもう」の「取相」は、表面や外面にとらわれ行動することですが、思わずわが身を振り返ってしまう言葉です。あらためて、経文はしっかり読み込まなければ、と思いました。
今回で『文句』の巻第六下「信解品」が終わり、次回の9月29日講義からはテキスト『文句(Ⅲ)』790頁の巻第七上の「薬草喩品」に入ります。申し込まれた受講者の皆さまには、事前に「薬草喩品」の経文ファイルとレジュメをお送りします。
初めての方も、分かり易いレジュメを参考にして、充分について行ける講義ですので、ぜひご受講下さい。(担当スタッフ)

 

commons

Author commons

More posts by commons