講座③「日蓮教学と中古天台教学の検討」第7回講座報告

講座③「日蓮教学と中古天台教学の検討」第7回講座報告
2016年10月22日 commons

平成28年10月22日、花野充道先生の第7回目の講義が行われました。

日蓮聖人の成仏論は、天台智顗の「初住成仏論」ではなく、また日本中古天台の「理即成仏論」でもなく、本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えれば即身成仏するという「名字即成仏論」である、と述べられ、絶対と相対の関係からその論理について説明されました。

田村芳朗先生は東京大学の卒業論文に、智顗の「絶待妙・相待妙」について考察されたが、それは慶林日隆師が説く「絶待妙の上の相待」の思想を究めんとしたからである。田村先生の哲学的な「絶待」解釈には、「待を絶す」という禅的絶対論(絶対の真理は言語で表すことができない)のみを「絶待」とする一部学者からの批判があるが、私(花野先生)は田村先生の説明は妥当であると思って、自らの論文でもそれを用いている、と述べられました。

日蓮聖人の名字即成仏論は、相対者としての凡夫をそのまま絶対として肯定する中古天台の本覚思想(凡夫をそのまま絶対とする)とは異なり、また天台智顗の凡夫はこの世ではついに成仏することができないとする始覚思想(凡夫はどこまでも相対のままである)とも異なり、末法愚悪・謗法劣機の相対者が、絶対的な本仏=大曼荼羅本尊に「以信得入」することによって、絶対者(本仏)と一体になって成仏(境智冥合)するという論理であるから、「相対の上の絶対」(相対の凡夫が唱題によって絶対の仏になる)と言うことができる、と説明されました。

次回は、親鸞の「如来等同思想」や、道元の「本証妙修思想」と対比しながら、日蓮聖人の「名字即成仏論」を説明してくださるそうです。皆さまのご聴講をお待ちしています。