【第4講 臨終行儀書と日蓮・日蓮宗】
令和6年7月9日(火)午後6時30分より、菊地大樹先生による連続講座「歴史から考える日本仏教」の第11回目「中世の臨終行儀―『往生要集』から日蓮の時代へ」の第4講となる「臨終行儀書と日蓮・日蓮宗」が、オンラインで開催された。
最終回となる第4講では、ストーン博士の『臨終正念』の第六章「臨終に立ち会う者」を参照しながら、日蓮と日蓮宗にとっての臨終行儀を検討していった。「臨終に立ち会う者」とは、臨終の場に立ち会う専門家としての「善知識」のことで、こうした善知識は、死穢を厭わない遁世僧たちが主に勤めて、やがて臨終正念の主役は、死に逝く者から善知識に替わっていったという。また浄土教を否定する日蓮も、社会的通念となっていた「臨終正念」は受け入れており、その後の日蓮宗も、浄土系の臨終行儀を参照しながら対応していった。次に各章の内容について説明していこう。
まずⅠ「日蓮・日蓮宗における臨終への基本的立場」では、伝統的法華信仰者は極楽浄土往生を求めたが、日蓮は霊山浄土への往生を打ち出して同信者の独自の浄土とし、霊山浄土では師弟も家族も再会できるとした。また、Ⅱ「臨終行儀と念仏・題目」では、どの時点で逝っても仏の名を唱えながらの立派な往生となるので、臨終時には経典読誦ではなく、念仏や題目が唱えられたという。しかし、臨終題目は日蓮以前に行われていて、『修善寺決』には題目の目的は「浄土往生」ではなく「解脱の完成」としている。その『修善寺決』の終末期修行についての文からは、日蓮偽遺文『臨終一身三観』が偽作されている。また日蓮は念仏者の「臨終正念」について、①解脱できなかったのに、往生したという嘘をついている、②臨終往生で具体的に悪相を表わす、③錯乱と狂乱を分けて、念仏者の多くは臨終時に狂乱死している、と批判している。Ⅲ「中世武士の臨終」では、十念を唱えての往生にならって、天文期に法華宗信者の武士が題目十唱で切腹した事例を挙げ、また日蓮が波木井氏長男に「当位即妙不改本位」の教えで、殺生の悪人の罪業を捨てずに成仏できると説いた例を示した。Ⅳ「日蓮宗の臨終行儀書」では、伝心性院日遠『千代見草』を取り上げると共に、日遠が書いた臨終修行の詳細な指南書『一念三千等之事』を紹介した。
最後に、①歴史的に天台浄土教と臨終行儀は一体化しているが、天台教学で学んだ日蓮の法華至上主義における「臨終正念」を再定義する余地あり。②中世における日蓮法華宗はあまり臨終行儀に関心を示さず、中世末期にようやく独自の臨終行儀書が現れたのは、近世的な宗派としての日蓮宗を考える上で興味深い、とまとめて、四回の講義を終了した。
4回に渡り、実に詳細に中世の臨終行儀についてご講義頂いた菊地先生に改めて感謝いたします。なお、この「中世の臨終行儀―摂関期から日蓮の時代へ」を踏まえて、来る8月31日(土)には一日集中講座として、大谷栄一先生と菊地大樹先生による「臨終行儀の今―変貌する死と儀礼」が開講されます。4時間の集中講座ですが、ブログの講座紹介を参照の上、ぜひ御受講申込のほど宜しくお願いいたします。(スタッフ)