7月1日(土)、松尾剛次先生の集中講座「鎌倉仏教研究史について 官僧・遁世僧論の立場から」が行われました。
最初に鎌倉仏教における通説である「鎌倉新仏教論」と「顕密体制論」の概要と問題について説明いただきました。
家永三郎の研究から挙げられる「鎌倉新仏教論」の問題点として「鎌倉の新仏教」を3種類に分類、新仏教の指標として反戒律・反祈祷・民衆救済を用いたものの、それは親鸞を新仏教のヒーローとするための自分勝手な価値判断であること、黒田俊雄によって提起された「顕密体制論」については鎌倉新仏教の判断基準である正統と異端について教学上・世俗権力という2つの要素を混同していること、その宗教の革新性を世俗権力から異端とされるか否かによって判断するのは問題があること、顕密体制を結びつけている密教化が進み結束が強まるはずなのに戦国大名の力で崩壊したというのは論理矛盾であるとしました。
そこで祖師のみならず弟子たちも視野に入れた制度、僧侶集団がいかなる人々を救済しようとしていたのか、得度・授戒制と立場・救済活動の相違に注目して、国家的授戒制下にあり国家のために祈祷する官僧と、官僧を離脱して個人の救済を目指す遁世僧という切り口を提示して頂きました。
官僧は鎮護国家の祈祷に従事するため穢れ忌避(白衣)の義務があり葬式に従事しないこと、穢れについてはその中心が人間の死穢と産穢、家畜の死穢と産穢、失火の穢れであり、穢れ忌避の例として『今昔物語集』によれば官僧が「自分などが死んだら大路に捨てられてしまう」といったことを挙げていただきました。
遁世僧(鎌倉新仏教の担い手)は官僧を離脱して仏道修行に励み(遁世)、穢れ忌避の義務がなく葬式などにも従事して個人救済の活動を目指す、法然教団、親鸞教団、道元教団、明恵教団、俊芿教団、叡尊教団、恵鎮教団、日蓮教団、一遍教団らも遁世僧教団であったとしました。また基本的に黒衣(黒袈裟、墨染め袈裟)を着たことを特徴としました。
持戒と破戒の関係性について、女犯が禁じられたなかで僧侶が稚児と性交することが一般化して、元亨元(1321)年に醍醐寺本で書写された模本『稚児草子』では性交の様子が露骨に表現されており、当時は当たり前の習俗としてあったことが想像できます。また、天台宗では稚児を観音としての聖性を付与する儀礼としての稚児灌頂が行われ、その後に初めて稚児を犯すことが成された、と解説していただきました。
次回は9月16日に開講されます。みなさまの受講をお待ちしております。(スタッフ)