菅野先生の第4講(1月分)の講座がオンラインにて行われました。
今回は、広の開三顕一について十義をもって料簡するうちの、第三、惑に厚薄あり、からの内容でした。
(テキスト454P~)
以下、講義メモから抜粋引用いたします。
第三、惑に厚薄ありについて
利根、鈍根とは大乗の根性を論じることで、惑に厚薄有るとは別惑に焦点を当てて論じることである。
それを四句に分別すれば、
1 惑軽く根利なり…若し別惑軽くして大根利ならば、初めて聞きて即ち悟る
2 惑重く根利なり…若し惑重くして根利ならば、再び聞きて方に暁(さと)る
3 惑軽く根鈍なり…若し惑軽くして根鈍ならば、三たび聞きて乃ち決す
4 惑重く根鈍なり…復た三たび聞くと雖も、悟ることを得ること能わず、止だ結縁衆と為るのみ
とあり、1と2を上根と為し、また2と3を中下の根と為すとある。
ただし、『法華文句記』には、
「為中下根云云」は「為中根」とあるべきか、あるいは「為中。下根云云」とあるべき、とある。
また、無明について初品の無明に三重あるとし、
法説…初品の無明に三重があり、初住の中道を覆うに焦点を合わせる。
・初めの法説の上根の人の若きは、三重の無明は一時に倶に尽きる。
・中根は二重の無明を断じる。
・下根は一重を断ず。
譬説のときに、
・中根は第三重を断じ尽くす。
・下根は進んで第二重を断ず。
因縁説のときに、
・下根は第三重を断じ尽くす。
※テキストの修正
456頁11行 「若し二智は利なれば」→「若し二は皆な利なれば」
第六、有領解・無領解を明かすについて
なぜ 声聞の領解があるだけで、菩薩と辟支仏には領解がないのか。
無仏に出世する場合を独覚といい、仏の説く十二因縁の法を聞く場合を縁覚という。
辟支仏は声聞のグループに入るので、辟支仏の領解はない。
菩薩の領解がないのは、声聞は自らの理解に自信がないので、仏に対して領解を述べる。
菩薩にはそのような心配はないからである。
第一に菩薩は、本心では仏を求める。たといさまざまな執著があっても、執著は軽く、
最終的に仏を取ることに帰着し、成仏することができないという心配はない。
今、三周の説を聞いて、ただその観察する智慧を正すので、領解を必要としない。
第二に菩薩が大乗を悟ることについては、至る所に経文がある。
二乗の作仏は、今の『法華経』から始めて、肝腎な点にしたがって流伝をさせるので、
菩薩の領解を省略する。梵文にはあるかもしれないけれども、中国では省略して書かないだけである。
第三に菩薩の階位と修行は深遠で他を絶している。
初心で低位の菩薩たちは、けっして領解しない。
如来寿量品を説き終わって、弥勒はすべて領解する。
最初、無生法忍から終わり一回生まれた後に最高の完全な覚りを得るであろうまでは、
領解を完備する。あらためて何を求めるのか……。
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第七、得記・不得記を明かすについて
声聞は授記され、辟支仏と菩薩は受記されないのか。
第一には昔、二乗は二乗としての正しい位に入って、発心することができないと明らかにする。
何によって記別を得るのか。今、大乗を悟り、この個別的な授記を喜ぶので、劫・国 を記すのである。
菩薩は発心して仏を求め、修行が完成して自然と満たされるので、急に求めることを喜ばない。
仏も速やかには授記しない。さらにまた、『法華経』の前の教えは至る所で菩薩に授記する。
これは通常の説である。肝腎な点にしたがって伝え翻訳する。前の通りである……。
第二に菩薩にまた個別的な授記がある。提婆達多・龍女は、どうして授記でないであろうか。
さらにまた、法師品には、「声聞を求める者、辟支仏を求める者、仏道を求める者、
このような類は、みな仏前で、法華経を聞く。
私はみな阿耨多羅三藐三菩提を獲得するであろうと、授記を与える」とある 。
これはどうしてみな授記でないであろうか。
第三に二乗は昔からまだ仏の八相の記別を得たことがなかったので、その劫・国を記す。
菩薩は前に授記されたことがあるので、重ねて明らかにしないである。浅薄卑近な授記は、
初住において得たが、菩薩の喜ぶものではない。
菩薩の喜ぶものは 、まさに完全究極の円極妙覚の遠大な授記であるにすぎない。
それ故、如来寿量品のなかに、始め発心してから一たび生まれて最高の完全な覚りを得るまで、
妙なる因は満たされ、究極の果はたちどころに完全である、とある。
これはまさに法身の記別を授けることである。どうして記別がないというのか。
(テキスト462P14行目まで)
次回は、2月28日(月)です。(スタッフ)