1月15日火曜日18時30分より、「もう一つの鎌倉新仏教」と題しまして、菊地先生による講義が開催されました。鎌倉新仏教といえば、「道元・法然・親鸞・日蓮」を連想するのが一般的ですが、それ以外の僧侶のなかにも、「鎌倉新仏教」として言えるような動きがあり、顕密仏教の面から見た場合にそれらがどのように関り、どのように展開していったのかについて、今回の講義では、「東福寺円爾」を、中心にしてお話を進められました。以下概略を報告致します。
はじめに、栄西によって中国から日本へ伝えられたとされている禅宗(臨済宗)は、導入期の段階では、兼修禅(禅・密教・天台)が盛んでした。一般的には「中国禅を持ち込んだ禅僧」といわれている栄西ですが、後には台密葉上流(天台密教)を興し、密教にも深く精通していました。しかし当時は、国内での「臨済禅」は受け入れがたい面もあって、初めは顕密を兼ね備えた、「兼修禅」を弘めていった人物でもありました。
また、禅宗としてはその後、蘭渓道隆による宋風禅の導入により、「兼修禅」から「純粋禅」へと変化していったとされていましたが、そもそも「純粋禅」といった概念は、何を基盤にして「純粋」な「禅」としているのか、はっきりしていない部分もあるとの説明がありました。
次に、栄西の系譜を引き継ぐ「円爾(東福寺)」とはどういう人物だったのかということについて触れました。
円爾は初期日本兼修禅を担った一人ですが、次に顕密仏教の立場からみた彼の位置付けについて説明されました。円爾の著作(と考えられる)の『十宗要道記』 (明治写本確認)では、禅の優位性を説き、禅宗優位の異端派だったと思われる反面、円爾は亡くなる一週間前に、三人の弟子に対して密教体系を相伝している事から、晩年には密教を重視していた面もあり、円爾を顕密仏教から異端派と改革派で分別した場合では、どちらとも判断しがたい面がある為、彼の教相判釈は、何を至上としていたのかがつかみ辛い部分もあった、としています。円爾の教学的な思考は、顕密禅三宗の宗風をもっていましたが、最晩年に弟子の白雲慧暁へ台密谷流系の印信群(「栗棘庵(りっきょくあん)印信群」)を与えていますので、顕密僧だったことは間違いありません。
続いて、「日本禅宗成立の前提」(レジュメでは第一章)と題して、禅宗の歴史を紐解いていきました。中国禅での三教(儒教・仏教・道教)と、日本禅 (儒教・道教の概念がない) では、中国と日本での禅に関する解釈や理解の前提が異なっていた為に、「禅」そのものを日本に持ち込む時には、既存の日本仏教にも馴染むように、内容がアレンジされていたことをあげられました。例えば円爾は『宗鏡録』に引用されている『釈摩訶衍論』(禅を通した中国仏教の典籍書、釈論での引用が多く、真言宗教学でも重視される書)を重視し、一方ではその『宗鏡録』を用いながら、日本では馴染みのない『宗鏡録』内の釈論を引用して、在来の日本仏教との接合を図っていたことを示されました。
また鎌倉時代に広まった「禅宗」ですが、当時は一般的に禅宗的な傾向を持つ宗教活動を一括して「達磨宗」と呼んでいたようです。日蓮は法然とともに、大忍坊能忍(達磨宗) に対して強く批判しており、当時の関東における影響力を物語っていますが、 「禅宗」とはそもそも鎌倉時代に入ってきた仏教ではないとのことです。奈良時代から「禅・禅師」と言われていた禅宗とは、山林修行者としての実践者であり、奈良時代当時では大乗戒を守る実践修行者を菩薩と称した、との説明がありました。
また聖一派における「顕密」の展開については、円爾の亡くなる直前に弟子達に与えて各派に伝わる「印信」の資料(安養寺印信群、真福寺印信群など)を参考に、印信のもつ意味や、役割について一部紹介されました。印信とは、口伝相伝を行う際の印の結び方やその時に唱える真言は口伝えで教えても、口伝自体の内容は書いてはならないのに、それを聞いた弟子がメモして残ってしまったものです。印信も時代が下っていくと、その内容も書き入れを行う筆者の主観もかなり入ってくることが考えられるなど、注意が必要である事を補足されました。また他には、前述した円爾から白雲慧暁へ相伝された「栗棘庵印信群」(台密谷流)の約50通の印信相伝目録を参照して、詳細にわたる説明がありました。
台密谷流での究極の教えとは「理知冥合」であり、灌頂儀礼は合行灌頂で行うべきで、金胎一致を顕します。真言宗での灌頂儀礼も同じく金胎が共に融合していくといった経過があり、全く別の流派でありながらも、結果的には台密と東密の違った系譜で印信を辿ってみた場合も、言わんとしている所は非常に近いものがあるとのことです。印信から各々の流派を理解していくと、決してお互いが相反するものではなく、寧ろ結論的には同じ方向に向いていることが伺えました。
結びとして先生は、古代・中世の各宗派の水面下では、様々な交流や互いを観察する意味での情報交換等のやり取りは自然な形で通用となっていたこと、また各宗派の中では、何が正しくて、何が劣ると言うような、教相的な判釈を常に見据えていた訳でもなく、各々の宗派が独自の優位性を全面に出したときには、利点や、正当性は見受けられるが、当時の全ての宗派を束ねてみた中では、そうした差別なく、「顕密仏教(体制)」という概念のカテゴリーの中に、「教えや心理と言うものは包括的に括られていた」ということを示されました。そして、鎌倉新仏教といわれる「道元・法然・親鸞・日蓮」以外でも、こうした顕密僧と呼ばれるグループの活動があって、鎌倉新仏教と顕密仏教を繋いでいくきっかけとなったのではないだろうか、と説明されました。報告は以上です。(スタッフ)