菅野博史先生「『法華経』『法華文句』講義」(通算92回目)が、1月26日(月)午後6時半より、開講されました。
今回の講義範囲は、テキスト『法華文句(Ⅲ)』の822頁1行目の「「以何法」従り下は、二法に約して~」から、830頁11行目の「「地上清涼の如きなり。」までです。経文の範囲は、「何なる法を以て思い、何なる法を以て修し」から、少し中途半端ですが「地の上は清涼に靉靆垂布して」までになります。
今回の経文は、前回の「如来の説法は一相一味で最後は一切種智に至る」ものなのだが、衆生は「それを聴いて修行するも、自分が得る功徳がどのようなものか知らず」にいる、ということを受けて始まります。その内容は、衆生は、様々な地に生える上中下の草木・叢林・薬草のように互いの異なる機根を知らないが、如来のみがそれぞれの違いを知って、それぞれの機根に合った「宜しきに随った説法(随宜説法)」をして、最後は一つの「空」に至るよう導いている。この随宜の説法は理解が難しいものだが、迦葉よ、この教えをよく信じて受け入なさい、と述べて偈文に入り、仏の大慈悲を「大雲」に喩えて、雲がなびき垂れるよう(靉靆垂布)に世間を覆うところまでです。
『文句』の解釈では、前回で論じた「如来は一相一味の無差別の実(真実)だが、草木等の「衆生」は差別があるので権(方便)」との対比から、無差別=差別論を述べていくのですが、今回は「空」という概念が出されて、一相一味が大乗仏教の究極的な涅槃の境地に至る事が示されます。つまり、畢竟「空」であるが故に、如来の説法は無差別ということです。
経文の「如来は是れ一相一味の法なりと知れり。所謂解脱相、離相、滅相、究竟涅槃、常寂滅相にして、終に空に帰す」を解釈して、「一相・一相・一味・解脱[相]・離[相]・滅[相]がもし二乗の法の本体であるならば、やはり差別の言葉の表現である。しかし今、大乗の究極的な涅槃は最終的に空に帰着するとするならば、共通して差別がない」と述べます。
「究竟涅槃」も二乗の有余・無余がある涅槃ではなく究竟の涅槃で、「常寂滅相」も常住の寂滅であり、また「終に空に帰す」の「空」も、二乗の灰身滅智(灰断)の空ではなく「中道第一義の空」である、と説明されます。
しかし次に、光宅寺法雲が「終に有余涅槃に帰入して、無常の身智を捨てる」と言ったことを、或る人が「それでは二乗とかわらないではないか」と非難したことに言及して、この「空」について、「究極的な空である」、「煩悩がないので空であり、常住第一義空に帰着する」、「空・有を突き通して捨てられたので空という」など、諸師の見解を引いていきます。そして、この随宜説法が「稀有」であることの解釈をした後に、偈文の釈義に入り、終了時間となったため、中途の「地の上は清涼に靉靆垂布して」で終了となりました。
次回は2月16日の日蓮聖人御生誕の聖日に開催です。テキスト『文句(Ⅲ)』830頁11行目の「「如可承攪」とは~」から始まります。この「薬草喩品」の譬喩には方便と真実の対比もあり重要なところです。共に学び理解を深めて行きましょう。(担当スタッフ)