大竹晋先生の特別集中講座「読経に意味はあるか――読経の歴史、読経の理論、読経の将来」の第二回講義が、11月8日(土)に新常円寺祖師堂地階ホールにて開講された。
第1回引用の論考は近代化路線が強い「読経否定」の傾向だったが、第二回講義では読経の意義を説く鈴木大拙「読経の神秘」(大正十五年)や中山理々「僧侶読経論」(昭和十七年)が採り上げられた。
鈴木大拙の「読経の神秘」は、『中外日報』に五回に分けて掲載されたもので、大拙は「お経の意味が分からない」ことについて、「わからぬ事は、わからぬと云う理由だけで有難くなる。特に有難い人の言葉となると、その傾向が強くなる。ここが宗教と哲学と違う点だ」、また「歴史がどうの、仏語がどうのと言わなくても、声そのものに不思議はある」として「声」に注目する。お経の棒読みは「陀羅尼と同一視」できるので、意味など求めず「無心の状態でお経を聴いていると、そこに一種の宗教的情緒の漂いが看守される」として、その神秘的効果を宣揚する。
中山理々の「僧侶読経論」は、『教学新聞』に三回にわたり掲載された論考だが、読経無用論に対してまず「読経で生活して何処が悪いのだ」と一喝して、「読経は立派な仏行である」として、読経の功徳が説かれた多くの経典を引用していく。そして、仏事法要で足の痺れを我慢している姿は、「先亡の霊界と交流する瞑想の一時」として尊いが、仏法の意味を分かることも大切で、法事で僧侶の「仏法の片鱗でも説き聞かす心構え」が有難いと結んでいる。
大竹先生は、引用した諸論考の傾向を「訓読無用論/有用論」、「意味無用論/有用論」と分類した上で、最後に「私のお経が仏様に届いているか」と悩んだ曹洞宗の小島祥芳尼(一九三〇~現在)の体験を紹介した。小島師は、悩んだ挙句の座禅中に「お釈迦さまが宇宙は一つの命と言った通り、池に小石を投げると波紋が広がるように私のお経は必ずや仏様に届くのだ」という悟りを得たという。この逸話をもって、読経の価値と読経人口を増やす大切さを述べて、二回にわたる講義を終えられた。
質疑応答は、第一回目では読経無用論に対する反論が多かったが、第二回目は時間も長く取り、各宗派での読経の現況や教学的な意味付けなども発表し合い、読経の将来について意見を交わす大変充実した論議の場となった。
大竹先生には、本年前期の四月十一日(土)でも、一日集中講座「菩提と覚——仏教における覚醒の概念の歴史」をご講義いただきます。皆さま、ぜひご予定頂きご聴講のほど宜しくお願いいたします。(スタッフ)