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前期の法華仏教講座第6回となる花野充道先生講義「「五時八教は天台教判に非ず」の再検討」が、9月27日に新宿常円寺祖師堂にて開催された。この講義は、約53年前の日本印度学仏教学会で天台宗の関口真大氏が発表した「五時八教は天台教判に非ず」に対して佐藤哲英氏が反論して決着がつかずに終わった論争を再検討するもので、会場・オンライン共に多くの受講者が聴講した。
関口氏の発表内容は「五時八教廃棄論」で、天台大師の著書に「五時八教」の成語は無く、智顗の五時教判の重点は「五味(乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味)」義にあり、頓漸五時教判(後述)のように経典の優劣を論ずるものではない。五味は機根論であり、五時は経論の勝劣を論ずる教判論であり別々なので、智顗の教学は機根論を中心に行うべきで、「五時八教」を天台教学として教えることを止めてもらいたい、というものだった。
講義の冒頭で花野先生は、関口氏がこの発表を行った当時の背景として1972年は創価学会が大石寺に正本堂を建立した年であり、関口氏は法華至上主義で勝劣派の折伏主義に対して、天台教学との差別化をはかろうとしたのではないか、との推論を述べられた。
この関口氏の五時八教廃止論に対して龍谷大学の佐藤哲英氏は、智顗に五時八教はなく後世に湛然や高麗の諦観の『天台四教義』によって大成されたことは認めながらも、その思想の根源は智顗にあり、また智顗において五味は機根論、五時は教判論と明確な区別がないため、関口氏の「五時は五味に重点をおいた理解にあらためられるべき」等の主張は受け入れられないと反論した。
報告者の私見だが、この論争の対立構図には日蓮教学における一致と勝劣の論争を重ねることができると共に、天台教学と日蓮教学の相違を観ることもできるだろう。補助資料として花野先生が中外日報紙に帰庫された「中国の天台仏教と日本の日蓮仏教—々法華信仰、異なる立場」も参照して頂きたい。⇒https://x.gd/1U9kW
花野先生はこの論争の再検討として、レジュメの第2章で「縁起説—空—円融平等か、それとも勝劣差別(至上説)か」をテーマに、張風雷氏に対する崔箕杓氏との質疑応答を引用して吟味し、天台は円融平等で円体無殊で諸法即実相の円教至上主義で、対して日蓮は法華・本門至上主義であるとの見解を示した。
続けて3章「四教の相待妙釈」と4章「四教の絶待妙釈」を検討して、5章「頓漸五時教判と智顗の四教五時教判」では、五時と五味の違いを詳しく見ていった。智顗以前の「頓漸五時教判」では、頓教は華厳経(初転法輪)であり、漸教においては劣の阿含経から優の涅槃経までを五味で優劣分けして、「法華経には仏性と仏身常住が説かれていない」としていた。
しかし智顗は、法華経に仏性も仏身常住もあることを示す為、頓教の華厳経も五味に入れて、味に基づく優劣判ではなく、五味の順序ながら釈尊一代の経典が五時として説かれたとする「時」の教判に改変した、という。つまり智顗においては、佐藤哲英氏の指摘するように「五味は機根論、五時は教判論」というような区別はなく、むしろ五味を五時に改変して教判を立てたということになる。花野先生は、この智顗の五時教判では、華厳経と涅槃経を最勝視せずに、円教(法華経)を最勝視しているところに最大の特徴があるとする。
以上の検討の結論として花野先生は、智顗は円教を至上とする四教判の上に立って従来の頓漸五時教判を批判して、法華経の会三帰一に基づくあらたな「五時教判」を創唱したといえるのであり、「五時八教」の体系化は後の湛然にあったとしても、その思想の淵源は智顗自身にあったと見て良い、と関口真大氏の廃止論を論破して講義を終えられた。
その後の質疑応答も、多くの質問が出て大幅に時間を延長することとなったが、本年度前期の法華仏教講座の最終回にふさわしい実に充実した講義となった。次回は、後期の法華仏教講座第一回として間宮啓壬先生による「日蓮における「無始の古仏」考—「無始」とはいつのことか?」が10月25日(土)午後3時半より開講される。ぜひご受講のほど宜しくお願いいたします。(担当スタッフ)

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