去る1月27日(月)午後6時半より、菅野博史先生の「『法華経』『法華文句』講義」本年度後期第5回(通算81回)が、開催されました。今回の『文句』テキストの始まりは、743頁2行目の「「心大歓喜」とは、仏は恒に子の機を伺う。今、機来りて慈に称(かな)う。この故に歓喜す。」からです。
随文釈義する経文の内容ですが、窮子が門から大力勢ある長者の父を見て恐怖し逃げようとした時、父は子に気づき「財産を継ぐ者が帰ってきた」と大喜びして、子を戻すよう使用人に伝えるが、子は殺されると思い悶絶して気絶してしまう。父は、我が子の資質が下劣になっていることを知って、使用人に水で目を覚まさせ放免することを命じる。子は、自由になったことを喜び、すぐに貧しい里に行って仕事と食べ物を求めた、という所までです。
初めに「今、機来りて慈に称う」とありますが、今回の釈義の要点は、教化における「機」と「慈」の問題です。父は、財産(大乗の教え=慈)を相続できる子(法器=機)が戻ったと喜んだのですが、実は我が子は「慈にかなう機」ではなかったという展開になっていきます。
「機」は、機根・器量・度量・資質のことですが、窮子には大乗の大慈悲に見合う「機が無かった(無機)」ために悶絶して倒れ、また小乗の機であったために貧里(小乗教)に行って道を求めて、ようやく安心できたのです。それを見て取った父(仏)はひとまず大乗を教化することを止めました。化を息めるので「息化」といいますが、これもまた相手に理解できないことは息めて、相手に理解できる方法を取る、つまり釈尊の対機説法の教化法を父もまた採った、という展開でした。
今回の講義は、「四見の中に於いて道を求むるが故に「貧里」という」の『文句』テキスト750頁1行目までで、次回は、2行目の「「将欲誘引」からです。ぜひ受講いただき、『法華文句』の随文釈義の面白さを堪能して下さい。(担当スタッフ)