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菅野博史先生の「『法華経』『法華文句』講義」本年度後期第4回(通算80回)が、去る1月27日(月)午後6時半より開催されました。今回の『文句』テキストの始まりは、738頁5行目の「「宝几承足」とは、定慧を「足」と為し、実諦を「几」と為す」からで、今回も経文の一文一句の意味を教学的に解釈(随文釈義)していきます。
この随文釈義ですが、なかなか理解しがたい譬え方も多い、というのが実感です。例えば、始めの「宝几承足」が出て来る経文のところは、窮子が父の屋敷に着いて門から父を見ると、父は獅子の床にすわって「足を宝の台に載せて」おり、その周りをバラモンや王族・武人や商人が取り囲んでいる、という場面の説明です。
この父の様子を『文句』が随文釈義すると、「床」は「第一義空・四無所畏」のことで、「円報法身は、空理に安処して畏れが無いので、獅子の床に居る」という解釈になります。そして「宝几承足」ですが、足が「定慧(禅定と知恵)」で、その足を承ける宝の台(宝几)が「実諦(真理)」となります。なんとなく、悟りを開いた父の身心が、空の真理の中にいるという、ゴージャスな描写なのかと思いますが、円報法身にしろ実諦にしろ、その譬喩が究極の真理を示している語句ので、分かったとはとても言えません。
もちろん分かり易い譬喩もあって、例えば「「真珠瓔珞」とは、即ち戒・定・慧・陀羅尼三昧の四瓔珞なり。「価値千万」とは、即ち四十地の功徳、以て法身をかざるなり」などは、なるほどと納得のいくところです。また「「香水灑地」は、法水を注ぎ降らせて、菩薩たちの心地に注ぎ、それで惑塵をひたす」で、綺麗な譬えだと思います。
また、経文で窮子が「若し久しく此に住せば、或は逼迫せられ、強いて我をして作さしめん」と述べたところを釈して、大乗の道の実践は無量劫なので「久住」といい、長い生死の輪廻を繰り返して修行するので「逼迫」という。またすぐに輪廻を解脱する小乗を願った私に、大乗の菩提心を生じさせたので、「強いて作さしめん」という」と解釈するとこなど、こじつけを越えた見事な釈義であるというほかありません。
次回の講義は、『文句』テキスト742頁後ろから1行目の「子を見る処とは、即ち師子の床なり」からです。ぜひ受講いただき、『法華文句』の随文釈義の面白さを満喫して下さい。(担当スタッフ)

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