2024年12月21日(土)に「現代の法華菩薩道とは何か」の第3回「法音寺福祉の法華的基礎
~救ライから総合福祉へ~」が弓削多一朗先生により行われました。
法音寺の始祖・杉山辰子は明治16年に無辺行菩薩の自覚で活動していたという鈴木キセと出会い、唱題行と他者のための行動を勧められ、旅人に食事の世話などをするなか医学による薬餌療法と
法華経の教えによる精神療法を組み合わせることを考えます。杉山辰子は「妙法で治らない病はない」と説得した医師の村上斎とともに名古屋で「佛教感化救済會」を名乗り総合的な福祉活動を進めていきました。
あるとき経営不振に陥っていた東京の巣鴨にあるハンセン病の病院を見学したところ、患者たちが治療らしい治療もされずに悲惨な状況であったの見て、杉山辰子そのまま病院で介護活動を行います。
患者たちは自分の治療費も満足に払えないため、必要な資金は名古屋の支持者たちから送ってもらったものの、半年もすると徐々に届かなくなり、名古屋から資金ももう出せないとの連絡もあり、名古屋に戻ることになりました。
その後も何かハンセン病患者たちのために何かできることがあると、各地で慰問を行っていきます。慰問では「ここは普通の人が来るところではない」と言われながらも薬品の配布や法華経・唱題の大切さを説いていきました。
当時の杉山辰子はいくつかの予見を的中させ、そのことで自身の活動における使命感を高めていったようです。関東大震災の際には支持者たちと共に名古屋での被災民の救済活動や、東京への物資の支援を行いつつ
『世界の鏡』という法華経の解説および日蓮の一代記が書かれた書籍を街頭で配布することで、自分達の考えを世に広めようとしました。このことがきっかけで後に法音寺を開山した鈴木修一郎(鈴木修学)も活動に参加します。
鈴木修一郎は福岡にあるハンセン病患者の病院で支援活動を行い、資金不足に苦しみながらも各地の寺院に窮状を訴えて後援会を作り、2年間支援を続けたあとで名古屋に戻ってきました。
そのときに救済活動というものは収入の裏付けが必要であること、多くの人たちの力を借りなければならないこと、真心を込めて訴えることで人々が協力してくれるという思いが必要であることを学んだそうです。
昭和11~14年には孤児院や保育園、診療所などを運営するようになります。また当時は戦争の足音が近づき、宗教活動にも差し支えるようになったため、表向きは人格形成のための講演会であるという形をとるようになりました。
戦争が激化するなかで特別高等警察の厳しい取り調べを受け、組織名の変更や支部解散、宗教活動の禁止などの厳しい処分を受けることとなります。このときに「昭徳会」を名乗るようになります。
昭和24年には知的障がい児施設の運営を継承、この経験から福祉は同情では限界があり、知識や経験のある人間が現場に立つ必要性を痛感します。そのためには教育機関が必要と考え、昭和28年には
学校法人法音寺学園(現日本福祉大学)が開学します。
終戦後に行き場のない多く孤児の受け入れや運営が行き詰まった養育院事業の継承を行い、鈴木修一郎が鈴木修学として日蓮宗で得度、最終的に昭和25年に日蓮宗大乗山法恩寺となりました。宗教活動の再開とともに
全国に布教拠点を設置、各地で講話会や仏教まんがの出版を行います。
かつて鈴木辰子は「仏になるにはそれだけの働きが必要で、一番よいのは親のない子供を育てること」と言ったそうですが、法音寺は最初はハンセン病患者の支援や孤児の受け入れなどから、
困難に会っている人たちへの福祉を持続的に実践するための模索を現在に至るまで続けていること、また一宗教団体として活動を続けていたなかで日蓮宗に合流したことについて、
おそらくは特別高等警察の追求や尋問を受けた経験から福祉活動を円滑に進めるための決断であったであろうこと、そういう視点で活動を行っている宗教組織は他にどれだけあるのだろうかと考えさせられました。
自分にとって福祉や利他行とは何なのかを考えなおすきっかけともなり、法音寺に一度訪問してみたいと思わされる内容でした。貴重な講義をありがとうございました。(スタッフ)