本年度の後期第3回目(通算79回)となる菅野博史先生の「『法華経』『法華文句』講義」が、去る12月16日(月)午後6時半より開催されました。
今回のテキストの始まりは、730頁12行目の「「出入」とは、二にして而も不二なるは是れ「入」、不二にして而も二なるは是れ「出」なり」からです。【経文】は、「出入息利すること、乃ち他国に遍く、商估買客も亦た甚だ衆多なり~」からで、【科文】では、「出入息利乃遍他国を釈す」からになります。今回もテキストの随文釈義(経文の解釈)が中心で、父を捨てた窮子が、遍歴の最中に偶然に父の屋敷にたどり着き、人も物も溢れた豪勢な屋敷の
なかで、跡継ぎの子供の行方を思い煩う父が、威徳ある姿で椅子に座っているのを、門から眺め見るところまでです。
経文の解釈では最初の「他国」を、常寂光土を除いた三土(凡聖同居土・方便有余土・実報障礙土)であるとし、「商估」とは菩薩のことで、その三土で菩薩たちは《法の利益》を求めて商売(=修行)するという釈となり、なかなか絶妙な喩えだと思いました。しかし、長者(仏)が跡継ぎの窮子(弟子たち)を慮り教化することを、「大乗の家業は、互いに次々に付与する」と述べて、「法の弘教(下種)」と「商売」を重ねて解釈しているところを読むと、「仏家」とか「仏の種性(ゴートラ)」という言葉が連想されて、それは仏の「無縁の大慈悲」と矛盾しないのかと心配になりました。しかし、その気がかりは講義が卷第六下に入り、経文の「窮子、傭賃展転して、たまたま父の舎に到りぬ」を釈して、「「父」は道後(悟った後)の法身をたとえ、「舎」は対象に制約されない「絶対平等の仏の慈悲(無縁慈悲)」を譬える」、とあったのですぐに氷解しました(笑)。講義は、長者が「獅子の牀)に踞して」を釈して、「第一義空、四無所畏を、床と為すなり」まで、438頁の四行目で終了しました。
次回の講義はこの続きで、5行目の「「宝几承足」とは、定慧を「足」と為し、実諦を「几」と為す」からです。次回の後期の第4回(通算80回)は、来春1月27日に開講です。ぜひ受講お申し込みいただき、『法華文句』の随文釈義の面白さを満喫して下さい。(担当スタッフ)