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去る10月21日(月)午後6時半より、本年度の後期第1回目(通算77回)となる菅野博史先生の「『法華経』『法華文句』講義」が開催されました。今回のテキストの始まりは、722頁14行目の「譬えを五となす。一に「捨父逃逝」より下は、父子喪失喩と名づく」からです。【経文】は「譬えば人あって、年既に幼稚にして、父を捨てて逃逝し、久しく他国に住して~」からで、【科文】では、「開譬」「五章を分かちて以て法譬」「分章」になります。
今回の講義では、菅野先生の『法華経の出現』の第六章「長者窮子の譬喩(家出息子の物語)と中国の教判思想」の全文をレジュメに転載して、その説明から始まりました。この第六章は、第一項が長者窮子の物語を現代語訳、第二項が教学的説明になります。この第二項「中国の教判思想に対する影響」では、『法華経』は中国仏教においては教判思想の基準を与えてくれる経典として評価されて、その中でも特に「長者窮子の譬喩」は、父が窮子を教育するプロセスが段階的に説かれているために、釈尊が声聞を「方便の三乗から真実の一乗へ」と教化していった重要な教判の譬喩とされたことを解説。そして、竺道生、法雲、吉蔵、智顗の解釈を採り上げて、智顗の五時教判が整えられていった次第を説明されました。この解説により、長者窮子の譬喩がいかに教学的に深みのある物語であったのか、あらためて良く理解することが出来ました。
またテキストの随文釈義(経文の解釈)では、長者窮子の譬喩を、父子相失の譬え、父子相見譬え、追誘の譬え、委知家業の譬え、付家業の譬えの五つに分けて、それぞれの譬えを解説。そして、経文の「年、既に幼稚にして」と「年、既に長大にして」を対比して、幼稚は無明が厚く重く理解する心に力がないこと、長大は善根が増えて次第に現れようとすることを表す、と解釈したところで講義は終了となりました。テキストでは、725頁の最後までが終わり、次回は726頁の「「捨父逃逝」とは、退大を「捨」と為し、無明の自ら覆うを「逃」と曰い、生死を趣向するを「逝」と為す」から始まります。
次回の後期の第2回(通算78回)講義は、11月25日に開講です。この講義を受けると、『法華経』の経文が深い教学的意味を持っているのか、よく分かります。講義のレジュメが整っていて分かり易いので、初心者でも受講に心配ありません。ぜひ受講お申し込みいただき、目から鱗が落ちる『法華文句』の随文釈義の面白さを体験して下さい。(担当スタッフ)

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