本年の前期第6回目(通算76回)となる菅野博史先生の「『法華経』『法華文句』講義」が、去る9月30日(月)午後6時半より開催されました。今回のテキストでの始まりは、718頁12行目の「小に準じて大を望むるに、亦た応に此の如かるべし」からになります。【経文】は「爾の時、慧命須菩提・摩訶迦旃延・摩訶迦葉・摩訶目犍連は、仏より聞きたてまつれる所の未曽有の法と~」からで、【科文】では、レジュメ1頁の22行目「大を以て小に望めて釈す」からです。
講義は、なぜ信解品と名づけた理由を述べる「信解品を釈す」のうち、科文「大を以て小に望めて釈す」から解説していきます。「大」とは大乗で、四大声聞達が譬喩を聞いて疑惑を破り、大乗の教えを信じたことを「信」、大乗の修行に入ったことを「解」と解釈します。そして、四大声聞が釈尊より授記された喜びを「無上の宝聚、求めざるに自ら得たり」と語り、「我等は今、真の声聞なり。仏道の声をもって一切(の者)に聞かしむ」と述べたことを、「(大乗の)円教を聞いて、円位に入るが故に、信解品と名づく」と解釈していきます。
その後の随文釈義(経文の解釈)では、須菩提がなぜ「慧命」と呼ばれるのかの説明から入り、四大声聞達が「我等は僧の首に居て、年はならびに朽邁(老衰)せり。自らすでに涅槃を得て、堪任(屈せずに忍耐)するところ無しと言って、また進んで阿耨多羅三藐三菩提を求めず」と、自ら菩薩乗を求めなかった3つの理由を述べたところを解説されました。この3つの理由(①出家教団の年長の立場だから、②年老いているから、③すでに涅槃を得ているから)の中で、③について『文句』では「すでに涅槃を得た。無為(涅槃)の正位は、大(乗の)心を起こすことができない。高原の陸地には、蓮華を生じない。」として、『維摩経』の譬喩を引いています。この『維摩経』の高原と蓮華の譬喩ですが、レジュメの注には「蓮華は汚泥の中に生ずる花で、高原のように清浄な涅槃の正位に入ると、再び仏法(蓮華)を生じることが出来ない。煩悩の泥の中にこそ衆生がいて仏法を起こすことが出来る(要約)」とあります。この譬喩は、「煩悩即菩提」の解説にもなりそうで、「悟りとは何か」を考え直すヒントともなり、勉強になりました。
次回の10月21日は、本年度後期の第1回(通算77回)となります。毎回ながらのお勧めですが、レジュメの内容が「科文」、「経文(訓読)」、「『文句』本文現代語訳」、「語句説明」と整っていて分かり易いので、初心者でも受講に心配ありません。ぜひ、受講お申し込み下さい。(担当スタッフ)