講座「裏から読む鎌倉時代—日蓮遺文紙背文書の世界—」第2講 講義報告

講座「裏から読む鎌倉時代—日蓮遺文紙背文書の世界—」第2講 講義報告
2021年11月16日 commons

去る2021年11月16日(火)午後6時半より、菊地大樹先生の連続講座シリーズ「歴史から考える日本仏教⑧」「裏から読む鎌倉時代—日蓮遺文紙背文書の世界—」の第2講が、ハイブリッド(対面&実況配信)講義形式で開催されました。はじめに第2講の要点として、日蓮聖人の最大の檀越である富木氏の紙背文書からうかがえることとして、当時の日蓮聖人周辺の世界がどうだったのか、なぜ富木氏は犠牲を払ってまで日蓮聖人を保護したのか、また千葉氏の所領である八幡荘を布教の拠点とした日蓮聖人だが、富木氏を通じて八幡荘と国府や守護所の関係からどのような影響を受けていたのか、などが挙げられました。以下にレジュメの目次に沿って、講義内容を簡単に補足して、報告していきます。

 

第2講 日蓮と富木氏・八幡荘

  • 富木氏と日蓮

○両者の出会い⇒六浦上行寺伝は、日蓮と常忍が六浦と下総を結ぶ船中で出会い問答の末に常忍が帰依する。

○紙背文書からみる両者の交流の始まり(テキスト資料「日蓮書状『天台肝要文』22/1060頁」)

⇒富木常忍は建長3年~5年の間に出家している。また常忍への書状の「昼は見苦しう候えば、夜参りわん」から、建長5年に日蓮聖人は八幡荘若宮の富木氏周辺にいたと推察される。

○鎌倉進出直後の日蓮⇒史料2「始めにて候らえば、かうし(格子)つく(作)て候也。~恐々。乃時 日

蓮 御返事」から、名越草庵を作る材料(白木)を布施された御礼状と思われる。

  • 富木氏の出自

○因幡富木郷の武士(テキスト資料「沙弥常忍訴状『双紙要文』11/1023頁」)

⇒因幡国富木(城)郷を名字とする武士で、父蓮忍の時に因幡から下総千葉氏に仕えて八幡荘若宮に移住。

暫くは因幡の所領も維持。蓮忍・常忍父子には地域をまたいで活動する院政期の「目代」に通じる能力があり、それを千葉氏が見出して重用したのか?

○国務のエージェント⇒「目代」とは、特に国司の代官を指して、任国に赴任しない国

司が私的に派遣した。院政期には諸国で武士が進出して目代との衝突が増えたため、

目代には「公文に堪能」のほか「武勇に堪能」なものが求められて、国務のエージェントとして活動。

  • 八幡荘について

○八幡荘の成立⇒八幡荘の「若宮」は、もと石清水八幡宮極楽寺寺領の「葛飾八幡別宮」か。谷中、曽谷(蘇

谷)、中沢、大野の四郷からなり、現在の市川市のうち北西部の国府台周辺と南部の行徳周辺を除く市域が、

八幡荘の荘域だった。

○八幡荘の構造と役割⇒千葉氏被官の富木・太田・曽谷などが荘内の郷での代官職であったことから、事実

上は千葉市の支配下として守護所に仕える為の拠点となっていた。また「若宮御堂」は若宮八幡宮の神宮

寺と思われ、千葉氏の下で富木氏が実質的には若宮御堂・別当職を知行していたのではないか?

○談議所としての法華経寺⇒領主にとって、多くの僧が集まり、俗人も参詣往来する「談議所」を領内につ

くることは、経済的なメリットがあった。日蓮と同時期に、浄土宗の良忠も千葉一族の荒見氏に招かれて、

談議所を作ろうとしていた。常忍(日常)は、聖人御書を格納する聖教殿を核として宿直を義務付けて格

護して、「講中」をつくり僧徒とともに和合合議による運営を定めた。

○千葉氏の拠点(テキスト史料「長専奉書『秘書要文』22/1092頁」/「沙弥生蓮書状『天台肝要文』15/1054

頁」/「生蓮書状、某書状礼紙書『天台肝要文』15,14/1054頁、1053頁」)

⇒因幡国衙での実務経験者として千葉氏にスカウトされてだろう富木氏は、千葉市の文筆官僚として活躍

し、裁判の奉行にも携わった。日蓮遺文紙背文書には、動産にかかわる訴訟関係文書が残されているが、

長期保存の必要がある不動産関係に比べて、紛争解決後には不要になったためとする説がある。

日蓮遺文紙背文書には、千葉市周辺での官僚集団が各所から活発に往来していた様子がみえる。八幡荘から守護所へ出仕することを「参る」、鎌倉から下総へ来ることを「下る」と表現している。また、建長5~6年頃に千葉荘の守護所周辺で事件が起こり、事務官僚らが連絡を取り合っての活発が動きがあったことなどが、テキスト史料から読み取れる。

 

以上の講義のあとの質疑応答では終了時間を越えていましたが、菊地先生は様々な質問に丁寧にお答えくださいました。次回は、12月21日(火)に第3講「千葉氏の活動と京・鎌倉・鎮西」となります。対面と同時にオンライン実況も致しますので、ぜひ御受講のほどお願いいたします。  (文責:スタッフ)

(テキスト史料「長専奉書『秘書要文』22/1092頁」/「沙弥生蓮書状『天台肝要文』15/1054

頁」/「生蓮書状、某書状礼紙書『天台肝要文』15,14/1054頁、1053頁」)

⇒因幡国衙での実務経験者として千葉氏にスカウトされてだろう富木氏は、千葉市の文筆官僚として活躍

し、裁判の奉行にも携わった。日蓮遺文紙背文書には、動産にかかわる訴訟関係文書が残されているが、

長期保存の必要がある不動産関係に比べて、紛争解決後には不要になったためとする説がある。

日蓮遺文紙背文書には、千葉市周辺での官僚集団が各所から活発に往来していた様子がみえる。八幡荘から守護所へ出仕することを「参る」、鎌倉から下総へ来ることを「下る」と表現している。また、建長5~6年頃に千葉荘の守護所周辺で事件が起こり、事務官僚らが連絡を取り合っての活発が動きがあったことなどが、テキスト史料から読み取れる。

 

以上の講義のあとの質疑応答では終了時間を越えていましたが、菊地先生は様々な質問に丁寧にお答えくださいました。次回は、12月21日(火)に第3講「千葉氏の活動と京・鎌倉・鎮西」となります。対面と同時にオンライン実況も致しますので、ぜひ御受講のほどお願いいたします。  (文責:スタッフ)