2021年6月22日(火)午後6時30分より、寺尾英智先生の2021年度前期講座【日蓮霊跡の再認識と顕彰の歴史】第三回講座が行われました。前回の第二回講座と同じくZoomによる動画を生配信し、会員の方々が各自オンラインで受講しました。
最終回となる今回は、誕生寺と日蓮聖人ご誕生の霊跡について。布施学林長先生は冒頭のご挨拶で「法華コモンズにおける日蓮聖人御降誕八百年記念講座といえる内容である」と仰いました。日蓮聖人ご誕生の地である誕生寺と、その周辺のご誕生にまつわる霊跡の顕彰について、近世を中心に資料を繙きながらご説明いただきました。以下、内容について要点を絞りご紹介致します。
一、講義の視点
近世における日蓮霊跡について、今回は誕生寺とその周辺のご誕生にまつわる霊跡の顕彰について、当時の人々にどのように認識されていたのかを資料をもとに確認する。
二、日蓮降誕の霊跡
日蓮聖人の生地について、御書に「片海」・「かたうみ」とあるが、実際にどこを指すのかは分からない。誕生寺の開創について、戦国期編纂と考えられる資料に「誕生寺」の名前が見られ、日家・日保の二人が開創したとある。また資料によって、小湊・片海・市河などの地名が見られることについて、寺尾先生は、現在ではそれぞれの地名として認識しているが、当時は小湊・片海・市河を同じ場所として認識していたのではないか、と指摘。
三、伝記に語られる誕生
日蓮聖人のご誕生については多くの伝記本に語られている。まず日蓮聖人ご誕生の日時について、貞応元年二月十六日とするものが多いが、八月一日、十月十三日とする本もある。またご誕生の際、泉が湧きその水を産湯に用いたとする誕生水、青蓮華が咲いたとする蓮華淵、これらについても伝記本に語られているが、本によって表現が異なっている。誕生水・蓮華淵と並び三奇瑞といわれる妙の浦は、伝記本には記載が無い。
四、江戸時代の霊跡顕彰
最初に、誕生寺周辺を描いた「小湊山絵図」をご紹介、景観や建物などから江戸時代中期頃の作とされた。この中に、後産を埋めた「ゑなの松」があるが、これは伝記本に記載が無い。次に、江戸時代前期の資料『日遵覚書』によると、慶安三年「蓮華渕之石塔」を、同年「御岩屋之石塔」(岩屋は現在の日蓮寺)を建立、寛永十八年「誕生水之井筒」を作成、江戸前期にこれらの霊跡顕彰を行っている。寺尾先生は、誕生寺は不受不施派の旗頭の一つであり、身池対論後は悲田派として存立するが、元禄年中に悲田派は禁止となる。受不施・不受不施の争いと霊跡顕彰が同時期に行われていると指摘。
五、妙の浦の顕彰
妙の浦について、近世の伝記本には記載が無い。天保四年『房総志料続篇』に、弁財天と鯛の浦に関する記述があるが、日蓮聖人の記述が無い。日蓮聖人と妙の浦を関連付けた記述があるのは明治以降。明治四十二年『小湊大観』に、日蓮聖人が船中より払子で南無妙法蓮華経のひげ題目を書き、集まった鯛がそのひげ題目を食べた、との記述がある。誕生水・蓮華淵・妙の浦、三奇瑞が揃って記されるのは、昭和六年『日蓮聖人降誕之聖蹟妙の浦由来』が初出。
六、まとめ
日蓮聖人の生地について、小湊・片海・市河などの地名が見られるが、当時と現在ではそれぞれの地名の認識が異なる。
日蓮聖人の生誕について語られた伝記本は数多いが、本によって表現が異なり、妙の浦に関する記述は無い。
江戸時代前期に誕生寺において日蓮聖人ご誕生霊跡の顕彰が行われるが、受不施・不受不施の争い(身池対論後)と時を同じくする。鎌倉や龍口の霊跡顕彰と同様に、受不施・不受不施の影響を受けている。近世における霊跡顕彰とは、近世に隆盛した出開帳による一般の民衆や観光客に対するアピール(権威づけ)という社会的一面と、受不施・不受不施という宗内の対立、ひいては江戸幕府の宗教政策の影響による宗教的・政治的一面、即ち宗門の内と外に対する二側面を併せ持つと考えられる。
最終回となる今回も過去二回同様に、誕生寺と日蓮聖人ご誕生霊跡に関する伝記本などの資料、また寺尾先生が撮影された写真、各資料の挿絵など豊富な資料をご紹介、近世における誕生寺と日蓮聖人ご誕生霊蹟について詳細にご説明くださいました。ご紹介いただいた写真の中には、戦前の誕生水堂の絵ハガキなど貴重な資料が数多くありました。そのような貴重な資料を惜しげもなくご開示いただき、受講者一同ありがたく拝見しました。まさに日蓮聖人御降誕八百年の聖年にふさわしい最終講座でありました。講座後の質疑応答では4名の方から質問があり、寺尾先生は一人一人の質問に丁寧にご回答くださいました。
今回の講座をもちまして、寺尾英智先生の2021年度前期講座【日蓮霊跡の再認識と顕彰の歴史】は終了となります。法華コモンズでは各界に於ける最先端の研究者を講師に招き講座を開講しております。法華コモンズのホームページをご確認の上、どうぞご聴講ください。(スタッフ)