2020年6月16日(火)午後6時30分より、菊地先生の講座【歴史から考える日本仏教⑤】〈承久の乱から考える鎌倉仏教〉第3講「承久の乱と鎌倉仏教」が行われました。これまでの第1講、第2講は動画を録画しての配信でしたが、今回の第3講は、菊地先生がご自宅よりZoomによる動画を生配信し、会員の方々が各々オンラインで受講する形式となりました。以下、本講座の内容についてご紹介します。
はじめに.現代史はいつからはじまるか
慈円、法然、親鸞、日蓮など鎌倉時代の頂点的思想家にとって、現代史とはいつからはじまるのか。慈円(1155-1225)は保元の乱(1156)によって、鳥羽院政期の政治的均衡が崩れ、敗者と勝者の二極化による社会的分断・混乱が進行する情勢の中で、摂関家九条家の出身として政治に関与する当事者でありながら、宗教の力によって社会の再統合を試みた。日蓮が宗教活動を開始したのは、承久の乱(1221)の三十年後であり、武士・貴族ともに承久の乱の当事者は一世代を経ており、承久の乱が規定した新しい社会の枠組みが定着した社会であった。法然・親鸞は混乱の渦中の都にあって、争乱の一部始終を体験した中から、自己の宗教を確立した。いずれの思想家も現実的な社会状況をどう克服していくか、という意識の下に活動していた。
1.後鳥羽院制の宗教的課題
鳥羽院は、当時の寺院社会に於いて周縁化していた実践修業者である堂衆や聖を、受領を介して積極的に体制に取り込もうとした。即ち、中心と周縁の二元的分立を統合しようとする努力が見られる。
後白河院は、法然や重源らと交流があり、治承寿永の内乱の戦死者供養のため如法経供養を行い、十種供養の導師を法然が勤めた可能性がある一方で、今様を習うなど身分や伝統にとらわれなかった一面がある。
法然は、後白河院の晩年に専修念仏の活動を顕在化させ、後鳥羽院政時代、延暦寺や興福寺などの権門寺院の強訴により、法然と主要な弟子は死罪・流罪に処された(建永の法難)。後鳥羽院は慈円を重んじ、法華経読誦を習ったが特別に仏教に傾倒しているようには見えず、建永の法難は、現代から見れば「思想弾圧」と解釈してもよい。後鳥羽院による宗教弾圧は「建永の法難」一件のみ。
2.承久の乱と日蓮
日蓮に於ける承久の乱とは、観念的なものではなく、非常に詳細に調査して把捉したものだった。また日蓮は、承久の乱の京方の修法について、詳細な情報を入手していた。当時に於ける修法(祈祷)とは戦闘行為。鎌倉方も修法を行っているが、京方に比べれば簡略で見劣りする修法であった。
日蓮筆『神国王御書』について、「夫以・・・」で始まるのは、敬白文の形式であり鎌倉時代の書状には見られない。本書は、法華経の行者を守護すべき旨を語りかけるために、敬白文として作成した書を、弟子・檀越に書き直して与えられた可能性がある。
日蓮と百王について、『日蓮宗事典』の「百王」の記述を基に、『頼基陳状』『本尊問答鈔』『三沢抄』『諌暁八幡抄』等の遺文を引用解説し、百王思想を利用して善神への「脅迫」という形で敬白することにより、対モンゴル戦争に於いて、なお日本国の守護を願う独特の戦略方法を、この段階では弟子にも勧めていたのではないか。これまでの通説的な善神捨国論の再検討が必要である。
3.日蓮遺文と天皇の代数
『日本書紀』を基本とする前近代の天皇代数は近代とは異なる。『兵衛志殿御書』『四条金吾許御文』『神国王御書』等の日蓮遺文によると、天皇の代数の異例や、即位の日付の齟齬が見られ、どのような年代記を参照していたかが問題となる。日蓮にとっての「王位」とは日本国の支配を代表する人物であり、源氏将軍や北条氏が「国王」とみられる場合がある。東国を中心に活動した日蓮が、彼らを対象とした語りや歴史的展望を述べるのは当然のこと。
おわりに.
日蓮にとっての承久の乱は、現代を生きるうえでの出発点であり、父祖の歴史を回顧する同時代の武士たちと共有すべき記憶であった。と同時に、承久の乱への回顧はきたるべき対モンゴル戦争という近未来への展望という形で日蓮の思想の中に機能していた。
第三講となる今回の講座は、Zoomを使用して初めての生配信となりました。菊地先生は、日蓮遺文をはじめ豊富な資料をご用意し、日蓮と承久の乱を中心に丁寧にご説明くださいました。また、生配信によって質疑応答が可能になり、より対面講義に近い形式になりました。第四講も本講座と同様の形式となります。なお、今回の第三講は、これまでと同じく1ヶ月間動画配信いたします。ご興味のある方は是非ご視聴ください。(スタッフ)
次回第四講は、7月7日(火)午後6時30分より今回と同じくZoomによる動画配信となります。どうぞご参加ください。(スタッフ)