去る2020年1月21日(火)午後6時半より、菊地大樹先生の「歴史から考える日本仏教④」の第四講となる「阿部泰郎「女人禁制と推参」を読む」が開催されました。この論文は名古屋大学名誉教授で、仁和寺など大寺院の聖教調査で功績のある阿部泰郎氏の著書『湯屋の皇后』の一章です。その概要は、比叡山などの聖地を「中心周辺構造」で分析して、男女の性(ジェンダー)からの全体性の回復に迫る議論を展開。そして、その境界を侵犯することで中心を活性化させる「推参」という行為に着目しながら、言説研究の側面から中世のジェンダー論を展開した画期的な論考です。以下、7つの中見出しに沿っての講義を報告します。
1、 女人禁制の説法
法然は、最初に女人救済を積極的に説いた宗教者とされる。当時では女人は往生の望みもない五障三従の身であり、霊地から排除された存在だった。しかし彼は、善導の「臨終の称名により女身転じて男子と成って往生する」という弥陀の誓願の解釈を引き、女人は弥陀によって往生を約束されているとその救済を証明した。こうした女人往生という法然の説法は、浄土宗諸派の僧侶用の談義本として広く流布した。また『曽我物語』や『胡蝶物語』なども法然の説法の一節を用いており、女人禁制をめぐる言説は女人を仏教に結びつけるための大前提として中世では広く流布していた。
2、 トラン尼伝承
女人禁制とは何かを考える時、『本朝神仙伝』(大江匡房)の中の「都藍尼説話」がある。仏法を修行して不老長寿を得た都藍尼に、大峯の金峯山に登ろうとして天変地異に遭って登れず。これは女人禁制の結界を破った罪にたいする神の罰を示す。大峯は厳しい女人禁制だが、熊野は男女分かたず参詣を許して平等一如を体現している。この金峯山女人禁制とトラン尼の伝承譚は、大須の真福寺文書にもある。また大峯の洞川登山口にある母公堂は役行者の母を祀っており、その名はトラメである。吉野・熊野の巫女は、霊地において神を祀る重要な役目を担い、境界上にあって山林修行に赴く行者を眺め、結界成立の由来を説き続ける。
3、 叡山と高野山のトラン尼
古くから叡山と高野山は女人禁制の山と知られるが、『叡山略記』には最澄に恋慕して女人禁制の由来を作ったトラン尼伝承がある。また高野山にもトラン尼伝承があって、後宇多院が高野山に行幸の折に見物しようと近里の女達が結界を破ったために、天変が起きたが女達を追い払うと晴天が戻ったという。天変地異により女人禁制の結界を示す霊地とは、実はその起源において、結界上にいる女人の存在と働きを媒介として成立したことが見て取れる。
4、 高野巻
説経の『かるかや』の物語は、法然に帰依した行者が妻子を避けて高野山で遁世すると、妻子が山を訪れ登ろうとするが、麓の宿の亭主が弘法大師の母の「あこう御前」による女人禁制の由来を説き押し止める。この一段を「高野の巻」という。この大師の母による女人禁制縁起は、トラン尼伝承の変奏の一つ。また、女人禁制は「納骨の聖地としての高野山」とも関連し、罪障消滅と往生成仏の聖地=高野山の周縁に、女人が居続けることにより、霊地の構造を支えて生気あらしめている。結界に隔てられた女人によってこそ、霊地の機能は発動して活性化する。
5、 結界侵犯の劇
トラン尼やあこう御前のような「結界破り」の女人は、芸能の場に見ることができる。能の『卒塔婆小町』や『多度津の左衛門・高野の物狂』は結界破りの物語であり、そこで演じられる霊地の讃嘆たる曲舞により、自他の得脱の喜びに向かって一気に転換を果たす。この結界侵犯自体が芸能のモティーフとなり、霊地の仏神の本懐を顕し出すための必須の過程をかたちづくる。
6、 常盤問答
禁制の結果を犯す女人の姿は、曲舞の流れを汲む幸若舞の「常盤物語群」のなかに再び現れる。鞍馬山の本堂に登って礼盤で仏事を営む常盤御前を、別当の僧は「女人障り多くして清き霊地を踏むことなし。はや出よ!」と大叱責する。常盤は落ち着き払って、五時教判を論じ「妙」の字を釈して「万法の頂きは、女を以て極めたり」また「女を謗る法師は、母の恩を背けり」と論破して、鞍馬寺の創建時に「弓削の女院の御墓堂」が建てられたことから、女人禁制ならば「女院の御墓を共に別当も寺を出よ」とやり込める。これらは、結界破りを罰せられながらも、伝承や芸能を通じて「聖なるもの」をもたらす女人の両義性を示している。
7、 推参する女
法然の伝記に、配流される船旅の途中で、室泊の遊女が端船を漕ぎ寄せ「推参して」結縁を求めた話がある。舵取りが貴い僧の船に遊女が近づくには見苦しいと咎めると、釈迦の本縁譚を引いて見事に反論する。また「闇きより闇き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月」と読み、聖人を祝福する。こうした遊女(あそび)が携わる芸能―あそび―が作り出す場により、禁制―結界の硬直した秩序が打ち破られて、価値の転倒が引き起こされる。「推参」とは差別される遊女が担う営みであり、その芸能力で境界を越えて「聖なるもの」を開示する。「参る」ということ自体に、人がおのれを捨て霊地や霊場へ向かう意味がある。女人禁制という性の隔絶の差別構造により維持される中世世界において、推参がはらむ侵犯や狂いがその臨界線上に投げつけられる時、その世界に裂け目が生じて、はるか彼方が見ることができたのではないか。それが「聖なるもの」だったかも知れない。
法然は、最初に女人救済を積極的に説いた宗教者とされる。当時では女人は往生の望みもない五障三従の身であり、霊地から排除された存在だった。しかし彼は、善導の「臨終の称名により女身転じて男子と成って往生する」という弥陀の誓願の解釈を引き、女人は弥陀によって往生を約束されているとその救済を証明した。こうした女人往生という法然の説法は、浄土宗諸派の僧侶用の談義本として広く流布した。また『曽我物語』や『胡蝶物語』なども法然の説法の一節を用いており、女人禁制をめぐる言説は女人を仏教に結びつけるための大前提として中世では広く流布していた。
2、 トラン尼伝承
女人禁制とは何かを考える時、『本朝神仙伝』(大江匡房)の中の「都藍尼説話」がある。仏法を修行して不老長寿を得た都藍尼に、大峯の金峯山に登ろうとして天変地異に遭って登れず。これは女人禁制の結界を破った罪にたいする神の罰を示す。大峯は厳しい女人禁制だが、熊野は男女分かたず参詣を許して平等一如を体現している。この金峯山女人禁制とトラン尼の伝承譚は、大須の真福寺文書にもある。また大峯の洞川登山口にある母公堂は役行者の母を祀っており、その名はトラメである。吉野・熊野の巫女は、霊地において神を祀る重要な役目を担い、境界上にあって山林修行に赴く行者を眺め、結界成立の由来を説き続ける。
3、 叡山と高野山のトラン尼
古くから叡山と高野山は女人禁制の山と知られるが、『叡山略記』には最澄に恋慕して女人禁制の由来を作ったトラン尼伝承がある。また高野山にもトラン尼伝承があって、後宇多院が高野山に行幸の折に見物しようと近里の女達が結界を破ったために、天変が起きたが女達を追い払うと晴天が戻ったという。天変地異により女人禁制の結界を示す霊地とは、実はその起源において、結界上にいる女人の存在と働きを媒介として成立したことが見て取れる。
4、 高野巻
説経の『かるかや』の物語は、法然に帰依した行者が妻子を避けて高野山で遁世すると、妻子が山を訪れ登ろうとするが、麓の宿の亭主が弘法大師の母の「あこう御前」による女人禁制の由来を説き押し止める。この一段を「高野の巻」という。この大師の母による女人禁制縁起は、トラン尼伝承の変奏の一つ。また、女人禁制は「納骨の聖地としての高野山」とも関連し、罪障消滅と往生成仏の聖地=高野山の周縁に、女人が居続けることにより、霊地の構造を支えて生気あらしめている。結界に隔てられた女人によってこそ、霊地の機能は発動して活性化する。
5、 結界侵犯の劇
トラン尼やあこう御前のような「結界破り」の女人は、芸能の場に見ることができる。能の『卒塔婆小町』や『多度津の左衛門・高野の物狂』は結界破りの物語であり、そこで演じられる霊地の讃嘆たる曲舞により、自他の得脱の喜びに向かって一気に転換を果たす。この結界侵犯自体が芸能のモティーフとなり、霊地の仏神の本懐を顕し出すための必須の過程をかたちづくる。
6、 常盤問答
禁制の結果を犯す女人の姿は、曲舞の流れを汲む幸若舞の「常盤物語群」のなかに再び現れる。鞍馬山の本堂に登って礼盤で仏事を営む常盤御前を、別当の僧は「女人障り多くして清き霊地を踏むことなし。はや出よ!」と大叱責する。常盤は落ち着き払って、五時教判を論じ「妙」の字を釈して「万法の頂きは、女を以て極めたり」また「女を謗る法師は、母の恩を背けり」と論破して、鞍馬寺の創建時に「弓削の女院の御墓堂」が建てられたことから、女人禁制ならば「女院の御墓を共に別当も寺を出よ」とやり込める。これらは、結界破りを罰せられながらも、伝承や芸能を通じて「聖なるもの」をもたらす女人の両義性を示している。
7、 推参する女
法然の伝記に、配流される船旅の途中で、室泊の遊女が端船を漕ぎ寄せ「推参して」結縁を求めた話がある。舵取りが貴い僧の船に遊女が近づくには見苦しいと咎めると、釈迦の本縁譚を引いて見事に反論する。また「闇きより闇き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月」と読み、聖人を祝福する。こうした遊女(あそび)が携わる芸能―あそび―が作り出す場により、禁制―結界の硬直した秩序が打ち破られて、価値の転倒が引き起こされる。「推参」とは差別される遊女が担う営みであり、その芸能力で境界を越えて「聖なるもの」を開示する。「参る」ということ自体に、人がおのれを捨て霊地や霊場へ向かう意味がある。女人禁制という性の隔絶の差別構造により維持される中世世界において、推参がはらむ侵犯や狂いがその臨界線上に投げつけられる時、その世界に裂け目が生じて、はるか彼方が見ることができたのではないか。それが「聖なるもの」だったかも知れない。
最後に先生は、こうした阿部泰郎の論述は、70年代に提起された中心周辺論の80年代における日本中世文学の新たな方法での継承だったと指摘し、またジェンダー論の本質を柔らかく捉え直しての今日なお考え続けたい問題提起であった、とまとめられました。その後の質疑応答でも「女人禁制」を遊女の芸能を通して読み解く刺激的な論考について熱心な質疑が行われました。
次回の第五回は、2月18日(火)の「佐藤弘夫「怒る神と救う神」を読む」です。どうぞご聴講のほどお願いたします。(スタッフ)
次回の第五回は、2月18日(火)の「佐藤弘夫「怒る神と救う神」を読む」です。どうぞご聴講のほどお願いたします。(スタッフ)