去る11月28日(土)午後6時半より、講座「これからの天皇制」の第二回「「平成流」とは何だったのか」が、講師:原武史先生を迎えて開催されました。原先生には、天皇制を「皇后」の側から捉えた『皇后論』(講談社)という画期的な著作があります。今回の講義では、『平成の終焉―退位と天皇・皇后』(岩波新書)をテキストとして、天皇・皇后の行幸啓(全国巡回)を伝える地方新聞を徹底的に読み込むことで明らかになった「平成流が創られていく過程」を詳しくお話しいただきました。
講義は、まず初めて皇族以外から皇室に嫁ぐことになった正田美智子(現上皇后)との婚約発表(1958年)から巻き起った「ミッチーブーム」ついての話から始まりました。このミッチーブームが60年代に入って(第二子の流産もあって)終焉したという、今も一般的となっている見方を、原先生は地方紙の記事によって覆していきます。実は結婚後から始まった二人の全国地方への旅(行啓)とは、東京でのミッチーブームが時間をおいて地方へと波及していくという意味がありました。今までの天皇・皇族の行幸啓は単独がほとんどで、常に夫婦一組となって全国を巡回するのは、明仁・美智子夫妻が初めてでした。またその訪問地において、自ら跪き相手の目線に合わせて話しかけるスタイルは美智子皇太子妃が訪れた老人ホーム「穂高・安曇寮」で初めて行ったもので、前例のないその姿は1961年3月28日の信濃毎日新聞掲載の写真で報じられています。
それまでの国民と天皇・皇室との交流の仕方は、「天皇1人⇔国民多数」での抽象的な「君民一体」を図るものでしたが、皇太子妃がおこなった跪いての交流は「1対1」の具体的な言葉を通じての交歓でした。安曇寮の写真では皇太子はまだ立ったままですが、やがて一緒に跪いて語りかけるようになります。皇太子妃が先導して、皇太子がついていく(実際に歩く時は逆ですが)。これが「人々に近づいていく」平成流の始まりであり、原先生はこれに加えて62~77年までは地元の青年たち5~10名ほどを選抜しての「懇談会」を開いて直接民主主義的な対話を続けていたことを指摘します。つまり、平成流における「会話」の重視です。それは、1993年に『週刊文春』から新しい御所が贅沢だとバッシングが起こり、美智子妃が失声症となった際に、引き籠もるのではなく翌月の行幸で「手話で会話をする」ことで自らの回復をはかったことからも伺える「言葉を通じて人々とつながる」平成流のスタイルです。この平成流は、1991年の雲仙普賢岳の被災地訪問での二人の姿で知れ渡りましたが、すでに皇太子時代の30年間での行啓で確立されていました。また、80年代には、昭和天皇の崩御が近づいて危機感を持った右派が、「提灯奉迎」という行幸啓を祝う運動を起こして現在でも続いていますが、平成時代になってからの全国紙報道では被災地での姿が中心となり、提灯奉迎はあまり取り上げられません。
2011年の3.11東日本大震災では、異例の「おことば」が出されましたが、この年の前年7月に実は最初の退位の表明がありました。2016年の「おことば」はそれに続くもので、明治からの皇室典範を変えたくない安倍内閣は、「特例法」で対応しました。こうした平成流のルーツとして原先生は、正田家と美智子上皇后の「カトリック信仰」があるのではないかと指摘します。また、皇太子時代の昭和天皇が欧州旅行でベネディクト15世と会談をした際に、法皇から「バチカン(カトリック)と日本・皇室との相互協力」の話を持ちかけられたことから、昭和天皇もカトリックに親近感を持っていて理解があったのではないかとも指摘されました。とはいえ明仁・美智子夫妻は、皇室祭祀にも実に熱心であり、その熱心さを支えているのは神道への信仰ではなく、別の宗教心(カトリック?)ではないかと、とも暗示されました。そして、最後にポスト平成の行方などにもふれて、講義を終了されました。その後の質疑応答でも、最近に行われた大嘗祭の費用への秋篠宮発言についてなど、30分以上にも渡って実に丁寧にお応え頂きました。あらためて原先生には充実した御講義を頂きまして感謝申しあげます。有難うございました。
次回は12月26日(木)、講座の第三回となる講師:磯前順一先生による「出雲神話論 祀らざる神の行方」です。どうぞ皆さま、ご聴講のほど宜しくお願い申し上げます。(文責:スタッフ)