「歴史から考える日本仏教」第4回は、7月17日午後6時30分より、
「中世王権と山林修行 – 中心と周縁 – 」と題して、菊地先生による講義が行なわれました。
始めに、副題にある「中心と周辺」について、文化人類学者の山口昌男氏が提起した「中心周辺論」を参照したことを説明されました。その関係を図で表す際の注意として、例えば立体的に「△」図で表した場合は、頂点が中心で周縁部が底辺にある上下関係の階層構図となって、二項対立的に捉えられてしまう。そうではなく平面的に「◎」の図を描き、その内円を中心にして、外の円を周縁として見れば、本質的な見方が出来るのではないかと話されました。そして、院政期社会を新宗教運動の胎動期として捉えて、「中心と周縁論」を顕密仏教(中心)と山林修行(周辺)などにあてはめながら、その宗教的構図を解き明かされました。
以下、概要を報告します。
平安時代になると中心の都の動きとしては法会と寺院の整備が進んでいき、学問的業績を積む事によって僧位が上がる制度が、9世紀中頃に確立しています。平安時代の法会は学問・学解中心の論議会で、南都三会(奈良時代創始・宮中御斎会・興福寺維摩会)では僧侶の昇進階梯があり、またその後の北京三会(円宗寺最勝会・法華会・法勝寺大乗会)では 天台宗や真言宗僧侶の昇進階梯が加わりました。これに準じた形で、三講(内裏最勝講・院(仙洞)最勝講・法勝寺御八講)なども行われ、僧侶の昇進制度がさらに整備がされていきました。
こうした僧侶の昇進制度が整備されていく中で、実践的修行の山林修行者たちは排除されて、一旦は周縁化していくのかと思われました。しかし、山林修行者たちは実践修行をしながらも学解にも勤めていたため、次第に延暦寺の「中堂久住者」のように堂舎に身を寄せ、「堂衆」として中心である寺院の中において集団化していくようになりました。
また興味深いエピソードとしては、鳥羽院が法華堂を拠点としていた堂衆達とは反対に、南中門堂に身を寄せていた堂衆に対して、赤栴壇十一面観音が下賜されるという大きな出来事がありました。鳥羽院が中門堂の堂衆に肩入れをした事の背景を考えてみると、周縁部にいる山林修行者は底辺にいるような大衆ではあるけれど、鳥羽院等の権力の中心にいた者達は、それらの大衆をまとめて中心に留めておくことで将来活用できると、その価値を認めていたのではないかという説明がありました。(以降は省略)。
今回は、学問・法会を中心とした白河院政期から、11世紀以降に起きた山林修行者の周縁化と、その周辺的世界の実践に注目した鳥羽院政期時代など、中心と周縁のパワーバランスの関係を通してのお話がありました。
最後に先生は「院政期宗教の構造は、この時代の宗教的、地域的周縁の動向を踏まえ、それらを逸脱や孤立したものと捉えず一体化した歴史現象として捉える視点が必要」と指摘されて、講義は終了しました。
なお、前回に引続き、第4回の講座の中からの動画を一部配信致します。また、今回の質疑応答では一切経についての質問が多数あり、聴講者にとっては大変興味深い内容でしたので、今回の動画は「中国から日本への一切経流入の経緯や、一切経の書写事業とその後の管理方法」についての講義部分を配信する予定です。 どうぞお楽しみください。以上
(文責:スタッフ)