去る3月22日(木)、間宮啓壬先生の講座「日蓮聖人の宗教的自覚をめぐる諸問題」の第六回目の講義が行われました。最終となる今回は、「地涌・上行菩薩と日蓮聖人―何が問題なのか―」をテーマとして、十年ほど前から興風談所の山上弘道氏との間で論争となっている「上行自覚の問題」を取り上げて、両者の論点を整理しながら、山上氏への再反論を試みつつ、間宮先生の見解を明らかにされました。
講義はまず上行自覚と重なる「師」自覚について、聖人の「愚者の自覚を徹底した末の仏の御心をそのまま受け取る智人の自覚」によってこそ成り立つとした上で、論争における四つの論点を次のように提示しました。
1、『頼基陳状』には「日蓮聖人は上行菩薩またはその垂迹」と述べられている論点。
2,『新尼御前御返事』等で「日連上行菩薩にあらねども~彼の菩薩の御計らい」で末法時に妙法五時を広めていると述べられている論点。
3、聖人が「万年救護御本尊」に「上行菩薩、世に出現して始めてこれを弘宣す」と書かれたのは、聖人がみずからを上行菩薩であると述べられた言葉として受け取るべきか否かという論点。
4、『法華取要抄』の草案等で「末代の聖人は地涌千界の一分」「浄行の一分也」と述べられていることの意味をめぐる論点。
こうした問題について、間宮先生は「自覚」について独自の分析概念を導入し、聖人が自身を上行菩薩そのもの(本体)として自覚していることを「本体的自覚」、そうではなく、聖人は上行菩薩が付属された広宣流布という使命(行為)を果たしているということを「行為的自覚」として、四つの論点をめぐる両者の見解の違いにつき、山上氏は「本体的自覚」に立ち、自らは「行為的自覚」に立っていることを詳しく検討していきます。そしてむすびとして、日蓮聖人を上行菩薩(あるいはその垂迹)と見るのは門弟らによる神格化した見方であって、日蓮聖人自らは上行菩薩の行いを末法時に行っているという「(行為的)自覚」であり、間宮自身は「日蓮聖人を聖人自身に即して見る」という姿勢を今後とも貫いていきたい、と述べて最終講義を終えられました。
その後の質疑応答も盛んに行われ、修了証授与後の懇親会にも多くの方が参加して談義が続きました。間宮先生には、あらためて充実した御講義を頂きまして感謝申し上げます。なお、今回の講座内容については、間宮先生が昨年11月に出された『日蓮における宗教的自覚と救済』(東北大学出版会)でより詳しく学ぶことが出来ますので、ぜひご参照ください。
(スタッフ)